【日本国体学に学ぶ1】「皇室の家法」と呼称する誤り

――元凶は伊藤博文の『皇室典範義解』にあり
日本国体学会理事長 河本學嗣郎
本誌掲載分〔PDF版〕

両学者の見解は正しいのか?
 あるメイリングリストのメイル交換を偶々見てゐたら、『皇室典範』を「皇室の家法」だと頻りに強調してゐるのを見た。
 「神武天皇の男系皇孫、かつ皇族である方でない人を皇族にしてしまうと、女系のお子様が誕生することになり、ご皇室の家法に背きます」「愛子内親王殿下の血筋が流れても、そのお相手が皇族の男子でないと、女系のお子様が誕生します。簡単に皇室の家法を無視してはいけないのです」等である。
 『皇室典範』を「皇室の家法」と呼称することは、今迄殆どなかつたやうに思ふ。ところが、ある学者の書物が切つ掛けとなり、一部の特に男系固執主義者が使用するやうになつた。その書物には

皇室典範は憲法とは違つて皇室の家法であり、一般の国民が論じたり参考にしたりすべき性質のものではありませんから、成立当時には「公布」はされませんでした。さりとて国民の眼から隠しておくべき秘密法規といふわけでもありませんから、明治四十年には西園寺内閣の下で、増補の機会に御告文を付して官報で公布されてをります。(小堀桂一郎著『万世一系を守る道』114頁 海竜社)

と記述され、同書で更に敷衍強調して

明治の皇室典範は大日本帝国憲法の下部にある法規として成立したものではなく、皇室の家法として別箇の独立性を有してゐました。敢へて上下関係を問へば同格といへませうが、典範の規定に改定や増補の必要が生じた場合、その審議を帝国議会に委ねるべきものではなく、皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て天皇に御裁可を請ふのが手続でした。帝国議会が関与しないのですから一般国民とは無縁の特殊な法として初めには公布すらされなかつたのです。(同122頁)

と述べてゐるのである。先のメイリングリストの書き込みも、この書を読んで影響を受け、皇位の女系継承を否定する文証根拠としたのであらう。
ところで、『皇室典範』を「皇室の家法」と呼称強調する学者は小堀氏だけではない。渡部昇一氏なども

以前は、皇室典範と憲法は何も関係がないといふことになつてゐました。それは、伊藤博文の『憲法義解』にも明瞭に書いてありますけれども、皇室典範は皇室の家法なのであつて、憲法とは直接関係ないのです。……だから、憲法発布のときは、皇室典範も出席者に配つたのですが、官報には載せなかつた。国民には関係ないことだといふことです。(「伝統と革新」平成二十四年秋号)

と言つてゐる。二人の碩学が力説強調するのであるから、国体的批判眼の無い一般人が、これを鵜呑みにして云々するのも止むを得ないところもある。
 しかし、問題は、両学者の『皇室典範』に対する基本認識に重大な誤りがある事実である。この点を国体学的に明かにし、皇室典範に対する正醇な理解を得る一助にしたいと思ふ。

『皇室典範』は私法ではない
 『皇室典範』に対する小堀・渡部両氏が揚言するところのものは、渡部氏も指摘してゐるやうに、実は、帝国憲法・皇室典範を起草した中心的人物、伊藤博文の『帝国憲法・皇室典範義解』に依拠してのことだ。伊藤博文の「義解」を見ると

皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の条章を更定することあるも、亦帝国議会の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は祖宗に承け、子孫に伝ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。又臣民の敢て干渉する所に非ず。(伊藤博文著『憲法義解』127頁 岩波文庫)

と言ひ、さらに帝国憲法

第七十四条 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス

の条文を釈して

蓋し皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定す。而して君民相関かるの権義に渉る者に非ざればなり。(同『憲法義解』122頁)

と言つてゐるのだ。小堀、渡部両氏の認識が、全く伊藤の主張そのものである事に気付くであらう。
 伊藤は、「皇室自ら其の家法を条定するものなり」との理由で、皇室典範は私人間の関係を規律する私法だと断じた。
 勿論、皇室とは天皇を中心とする「家」であるから、その皇家の法を「家法」と表現しても一応、間違ひではない。
 しかし、伊藤や小堀、渡部両氏が「皇室の家法」だと強調する所以は、「典範」は、皇室自らが制定したもだから皇室の私法である。飽く迄私法であるのだから、国民とは「無関係」「無縁」といふ認識に立つてゐることである。
皇室の家法は私法であるから、国民とは無縁などといふ認識が、君民一体、君臣一如の特殊なる国体構造の日本国に果して妥当する正しい認識なのか、常識的に考へても、明かな間違ひだ。
 そもそも、皇室は古来から「オホヤケ」と言はれ、公家としての存在である。であるから、皇室典範上諭、さらに典範第二増補の上諭には、「皇家」と表示されてゐる。第一増補の上諭には「大日本帝国皇家」と堂々たる認識に基いての標示である。
 「オホヤケ」の存在である皇室とは、国体的血縁構造からするなら、民族の尊崇する宗家としての存在であり、道義観において観るなら、「道」を任持せられてゐる「家」、即ち直ちに「道」の存するところの「家」としての「公家」であらう。必然、「公家」たる皇室の「皇室典範」が皇室の私法である訳がないのである。伊藤は勿論、小堀、渡部両氏の思考の原点が、そもそも間違つてゐるのである。

伊藤の解釈、輔弼の誤りは「実践的に訂正」された
 次に、皇室典範そのものの中身を見てみよう。果して私法としての内容規定なのか。さうではあるまい、悉く国家公の法のみが掲げられてゐる。皇位継承の事を始め、践祚即位、敬称、摂政、太傅、皇族、皇室経済、皇族会議等細密に規定してある。皇位継承は、国家にとつて最大、最重の公事である。であればこそ、明治の憲法学者は

皇室典範に規定してある事項は、これを皇室一家の私事として、皇室の自主権に依りて規定するものとしたのではない。我が皇室に私事なるもの無し、皆悉く国家の公事である。ただ特別の理由に依り、形式上これを区別したるに過ぎぬ(上杉慎吉著『大日本帝国憲法講義』61頁 日本評論社)

と言つたのである。
 典範の中身を見る限り、伊藤が、「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず」といつた解釈に立ち、そのやうに輔弼した誤りは重大だ。
 事実、「伊藤は、かかる確信に基づいて輔弼したのだが、国家公の法を公式をもつて公布しなかつた伊藤の輔弼の誤りは、後に、第一増補公布の時、『実践的に訂正』」(里見岸雄著『皇室典範の国体学的研究』35頁)されたのである。
即ち、「上諭」に明治天皇が「朕カ子孫及臣民ヲシテ之ニ率由シテ愆ルコトナキヲ期セシム」(傍線筆者)とお示しになつてゐる通りだ。
 小堀氏は、皇室典範が後、増補されて公布されたことを、「国民の眼から隠しておくべき秘密法規といふわけでもありませんから、明治四十年には西園寺内閣の下で、増補の機会に御告文を付して官報で公布されてをります」と「秘密法規ではないから」などといふ苦しい理由を述べてゐるが、伊藤の言を信じ何等疑ひを持たなかつたことは、軽率であつたと言はねばならぬ。

『皇室典範』制定の目的にも反する
 さらに指摘すれば、小堀、渡部両氏が、『皇室典範』を「国民とは無縁」な法と捉へるのは『皇室典範』の制定目的にも反することなのである。明治天皇の憲法発布の『告文』は、典範、憲法の制定目的を明瞭に宣示したもので、その中に

世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ、典憲ヲ成立シ条章ヲ明示シ、内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ、益国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ、茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス

とある。
 即ち、明治天皇自ら、皇室典範は、憲法と共に「世局ノ進運」「人文ノ発達」といふ外的機縁、即ち時代の発展に適応すべく、皇祖皇宗の遺訓として伝承してきた統治の道を根本的成文法として確立明示し、内は、列聖の率由したまふべき統治の根本規準たらしめ、外は、臣民の統治を翼賛する道を明示し、君臣共に永遠に遵行するための大法として制定したとの御宣示である。さらには、「益国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ」と言はれ、重ねて「八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ」と、その制定目的を明かにせられてゐるのである。
伊藤博文が、「義解」において

皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を貽す所以なり

と皇室子孫のことのみを言ひ、その次に

皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり故に公式に依り之を臣民に公布する者に非す

と解して輔弼したことが、如何に重大な誤りを犯してゐたかが分るであらう。この伊藤の見解と輔弼に対し、

明治二十二年二月十一日、憲法ならびに典範の制定にあたりて、皇祖皇宗の神霊の御前に奏上したまひし「告文」の根本趣旨に反する見解並びに輔弼だからである。(里見岸雄著『皇室典範の国体学的研究』18頁 里見日本文化学研究所)

との、厳正批判がなされた。
 里見岸雄博士が、伊藤の「義解」の見解と輔弼の誤りを鋭く批判指摘したのは、昭和十年に著した右記の『皇室典範の国体学的研究』であるが、今迄誰一人としてこの点に気付いた者はゐなかつた。伊藤が里見博士によつて受けた学問的厳正批判は、当然の如く小堀、渡部両氏も甘受しなければならないものであらう。

憲法、典範別立の理由
 さらに小堀氏は、『皇室典範』と帝国憲法が何故別箇に制定されたのか、その理由を述べ、「皇室の家法なるが故に別箇」の法としたとしてゐるが、余りに単純だ。これも、伊藤の「義解」を無批判に援用したためである。
 伊藤は、そもそも皇室典範は、「皇室の家法であるから皇室自ら之を制定した。かかる家法であるが故に、君臣の権義(権利や義務)に相関かるものではない」として憲法と典範別立の理由を述べてゐる訳だが、これも、伊藤の誤謬の根底をなすものだ。
 皇室の家法であるから、君臣相関かるの権義に属しない、しかし、家法でない国法ならば君臣相関かるの権義に渉るといふことが、先にも指摘した通り、国体を基盤とする日本国において言へる事なのか。
 そもそも、国法即ち、帝国憲法であつても、臣民の干渉を許さず、臣民の権義に関はらないものが有るとされてゐた筈だ。帝国憲法は国家の根本的国法として制定され、しかもそれは、将来改正されることを予想し、議会の議を経ることを規定してゐる。しかし、それであつても、どの条項でも改正してよいといふものではなかつた。
第一条 第二条、第三条は国体条項として改正不可とされてゐた。何故なら「我が建国の体に基く」(明治九年、国憲起草の勅語)国体規範であるから、未来永劫改正出来ぬものとされてゐたのである。
 それは、第一条が、憲法の根源としての万世一系の天皇の統治、即ち、国体事実の宣言であるからであり、第二条は、この国体事実の中核的要件としての皇位継承を規定したもの、第三条は、天皇位と天皇位にある自然人が国体的、国家的本質においての神聖を規定したものであるから、この三箇条は、国体的根拠に立脚した不可欠の条文とされ、臣民の干渉を許さない国体法として憲法に掲げられてゐたのである。
 伊藤が、「皇室の家法は君臣の権義に相関かるの権義に属さない、国法ならば君臣の権義に相関かるに渉る」などといふ認識が如何に杜撰極まりないものであるかが分からう。
 一方、皇室典範を見ると、日本国の国法として、皇室に関する幾多の条章が掲げられてゐる。そして、これら皇室に関する規定は、古来から一貫した不変の法として確立制定されたものだ。これを一々憲法に規定し、臣民が一々云々することは、国体を毀損する危険があるといふことで、皇室に関する規定は、すべて帝国憲法とは別に、皇室典範に掲げられることになつたのである。
 かかる認識に基き憲法には、皇位継承についての大綱のみを規定し、憲法に必要な限度において掲げ、典範の方は、典範として必要な部分を詳しく規定したといふことなのである。
 つまり、国体規範としての不文一貫の法たる皇室に関はる幾多の条項は、憲法とは別に規定することが、日本国家の特殊性に合致するといふ理由であつたといふだけのことなのである。決して皇室の私法、家法であるから別箇に規定したといふものではない。
 皇室典範はかくて、皇室の私法なのではなく、全条悉く国家の公法である。それは日本国体の特殊性に基き国体的事項、および、それに直接関連する事項は、断じて臣民の干渉を許さない不文法の存在を前提にしてのことであつたのである。この規範意識によつて、憲法・典範は別々に制定されたのである(『皇室典範の国体学的研究』要約)
 皇室典範は、「皇室の家法として別箇の独立性を有してゐました。……国民とは無縁の特別性を有してゐました」「皇室典範と憲法とは何も関係がないといふことになつてゐました」等と言ふ小堀、渡部両氏の認識とは全く異る、国体的領解の違ひが闡明であらう。
では、帝国憲法と皇室典範が、別々に規定された関係性は如何なるものであつたのか、里見岸雄博士は

典範及び憲法は、各形式に於て独立せる法であつて、その地位は全く対等である。然しそれは、両者が無関係だといふ意味ではない。典範及び憲法は極めて密接な関係即ち、双照扶規の関係に立つてゐるのである。憲法は典範を照し、典範は憲法を照し、互に相照しつゝ、各々その任とする処を規律し、依つて以て、互に扶け合つて、天皇統治の権を遺憾なからしめんとしてゐるのである。(「皇室典範の国体学的研究」三十頁)

と述べ、典範、憲法別立の根本理由を

典範は悉く天皇の位、天皇又は皇族の御一身上に関係ある事項のみである。即ち典範は臣民が公議する事によつて統治をよりよく扶翼し得べき事項を除き臣民が公議する必要なく又公議しない事によつて、正醇を保護助長し得べき事項のみを憲法以外に独立せしめた根本法であると理解すべきだ。(同三十七頁)

と記述してゐる。まことに、国体的領解とは斯くなるものと、改めて国体認識の深さを実感するのである。『皇室典範』を「皇室の家法」などと軽々しく決して発言してはならぬのである。

「国体文化」平成27年1月号所収)

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