歴史研究の基本と国体研究〔里見日本文化学研究所創設九十年に寄せて〕

文学博士・里見日本文化学研究所客員研究員 宮田昌明

 日本近代史の業界は、流行の理論や概念、視点を援用して歴史的事象を説明することが多い。「戦争責任」「国民国家」「総力戦体制」といった類である。岩波書店は近年、新たな『岩波講座日本歴史』の論集を出版しているが、内容、特に近代史は空虚である。かつて亀井勝一郎は、マルクス主義に汚染された岩波書店刊行の『昭和史』について、「人間がいない」と評した。装いだけ斬新な月並みの議論は、自閉的空間を想起させる。亀井の批判はいまだに活かされていない。

 人間には意思があり、感情があり、誤解がある。迷いがあり、責任や使命があり、成功と共に挫折がある。その軌跡は試行錯誤に満ちている。それらすべてが人間の生きた証である。そしてそれら全体の中に反映される意識的、無意識的な行動様式や価値観の体系、それが文化であり、国民性であり、国柄であろう。それに正面から向き合わず、他人の概念を利用してすべてを理解した気でいるから、「人間がいない」歴史になるのである。

 日本の近代史研究の大勢は、専門性の名の下に視野を狭めて些事にこだわり、独創性の名の下に最新の流行を援用し、既成観念に新たな装いを施すばかりである。多くの人は無意識に、先入観を否定されるより、補強される方を好む。時として斬新な発想に触発され、これまで気づかなかった物の見方に感動することがある。すると、既成観念を打ち破る新たな世界を発見したかのような気分になる。しかし、そこに陥穽がある。流行を振り回し始めると、逆に流行に振り回され、画一的な二番煎じを繰り返すようになる。本人はそれで、既成観念に囚われない、最先端の研究と錯覚している。しかし、それは先入観の粉飾に過ぎないのである。

 理論には理論なりの意義がある。しかし、一つの理論ですべてが説明できるわけではない。理論とは、限定された条件の下での一つの仮説に過ぎない。他人の理論や概念によってしか事実を理解できないなら、事実に向き合う意味がない。未知の事実を知るために先人の蓄積に学ぶという謙虚な姿勢でなく、流行に追従し、権威をふりかざし、売名を図る姿勢が、特定の理論や概念、視点によって現実を無視する、堕落した精神を生み出す。中でも近代日本を「侵略」と断罪する歴史は、その政治性ばかりでなく、何より独善的正義の装いで自らの知的退廃を隠蔽するその卑劣さによって、科学的に無価値なのである。

 デカルト『方法序説』は、「我思う、故に我あり」の言葉で知られる。同書においてデカルトは、分析と総合という科学の基本手続きを提唱している。すなわち、分析とは、複雑な問題を簡明に理解できる小さな部分に分割していくこと。対して総合とは、理解できた小さな部分を積み上げ、複雑な全体を理解することである。これは科学の基本であるが、その実践と徹底は意外に難しい。特に総合の過程、すなわち分析に基づき、全体的結論を下す過程で、人は往々にして借り物の概念に依存する。先入観を当てはめて理解した気分になる。権威や流行に流される瞬間である。

 なお、デカルトは、結論の明証性、すなわち科学的正しさを保証するものとして、懐疑的精神を提起している。しかし同時に、神に対する信仰と、日常生活における常識、節度ある態度を守る決意をも表明している。科学に対する真摯な姿勢が、生活の中にも反映されるのである。常識を疑う、奇を衒った、それでいて借り物の主張は、偽物である。

 研究とは一般に、事実に向き合い、科学の基本的手続きと広い関心によって、思い込みによる誤謬を訂正し、新たな知見を積み重ねていく作業である。しかし、そうした姿勢は、基本を遵守しながら、多角的に事実や現象を捉えていくことのできる研究者によってしか評価されない。

 そうした諸研究の中で歴史の研究とは、過去における事実と事実、現象と現象、ある時代とそれを受け継ぐ次の時代との間に存在する合理的関係を措定し、全体を捉えていく作業である。こうした基本作業の積み重ねによって、特定の時代の独自の現象を、普遍的に理解可能な現象として捉えることが可能になる。歴史的事実は、それ単体では意味をなさない。それに意味を与えるのは、事実と事実の関係を捉える人間の認識である。そこに、堕落と科学の分岐点がある。

 以上のような科学、特に歴史研究の方法は、国体研究についても同様である。すなわち、日本の国体とは、天皇と国民の関係を中心とする日本の独自性と普遍性であり、その解明作業とは、日本独自の現象を日本独自の合理的現象として、普遍的に理解可能な形で説明していくことであろう。日本の歴史には、独特の現象が多く見られる。教条的概念を利用してそれを批判、否定するのではなく、分析と総合の手続きを通じ、歴史の過程に個々の人間性と全体の文化的資質とを読み取っていく、そうした不断の試みが、国体解明の基本的作業となる。国体という表現に対する無理解は強固であるが、たとえば日本学、日本研究と称される分野の研究対象は、国体の実体と重なる。天皇の重みを直視できない日本研究が存在するとすれば、その方が非科学的であろう。

 歴史研究の評価には、おそらく十年を要する。時間が鍍金を剥がしていく。良質な研究とは、十年を経てなお信頼の置ける基礎の堅固な研究である。そしてそれ自身が他の研究の基礎となり得る研究である。惰性的権威の支配は強固であるが、それを変えるには、基本に忠実に、内省を失わず、小さな一歩を積み重ねて成果を示していくより他に、方法はないであろう。

〔里見日本文化学研究所創設九十年記念号掲載分〕
「国体文化」平成27年4月号〔通巻1091号〕)

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