里見日本文化学研究所とは


西宮六堪寺に開いた里見日本文化研究所

西宮六堪寺に開いた里見日本文化研究所

《里見日本文化研究所創設の宣言》

 人情に迎合し大勢に順応することを以て能事了れりとする現今の時代相は、決して永遠の平和を導き出す所以でない。文芸の頽廃、政治の腐敗、宗教の堕落、道念の退化等あらゆる濁悪の根元は何れも人類思想の根本的錯謬に起因するものである。
 時世を救はんと欲する者は須らく沈思静慮、諸の思想学見の病源を究めて治療の方策を樹てなければならぬ。思想を針に譬ふれば社会人生は糸の如きものである。針の過糸に引く、人類社会万年の和平を希望せば、先づ健全なる思想を撰ばねばならぬ。
 而して予は人間究竟の安住点、世界最終の帰着処は、日蓮聖人に依つて唱導されたる本化仏教の外に無きことを発見し且つ之を確信する者である。
 予は過去数年間欧洲諸国にあり、英独文の著述を以て予が抱懐する所を発表し力説をして来たのであるが、今や帰朝に際し更に此所信を実證せんが為め、其素願を實現せんが為め、茲に同我の学徒と共に里見日本文化研究所を創設することを中外に宣示公言する。
 此研究所の事業たるや日蓮学並に日本国体の学術的研究を中心とするものであるが、更に是等の成果を携げて政治に実業に社会に文芸に其他人生の万般に通ずる具体的実際運動を興す日も亦遠くないことを確信する。
 時世に迎合するのではない。時代の濁流に逆行するのである。生命財産名誉我欲は素より哀惜する所でない。唯天下有道の美を済す時こそ予が冀望の聊か満足される日である。
  大正十四年四月廿八日
                          里 見 岸 雄

 当研究所は、大正13(1924)年12月25日に《里見日本文化研究所》として現在の兵庫県西宮市に創設され、翌年4月28日の立正会(日蓮聖人が立教開宗なされた日)を期して開所式が行われました。
 上に掲げた宣言文は、開所式にあたって所長であり創設者である里見岸雄が発表したもの。

 当時の所員ですが、所長である里見のほか、船口万寿、石原莞爾、原実などが助手を努め、ベルリン在住の女性哲学研究者・フランケ博士も名誉所員としての待遇を受けていました。また、長滝智大、山川智応、田中芳谷ら国柱会の重鎮が顧問となり、坪内逍遙〔作家〕、遠藤隆吉〔教育者・巣鴨学園創立者〕、金子馬治(筑水)〔評論家〕、高島平三郎〔心理学者〕、亀田豊治朗〔統計学者〕、高須芳次郎〔評論家〕、田中阿歌麿〔地理学者〕、馬田行啓〔日蓮学者〕、河野桐谷〔美術評論家〕、額田六福〔劇作家〕など著名の士が賛助員として名を連ねています。

 大正15(1926)年2月、当研究所の機関誌として『日本文化』が創刊されました。同誌は紆余曲折を経ながらも『国体文化』として現在も継続し、平成19年8月号を以て通巻1000号を数えるに至りました。

 昭和2(1927)年9月24日、同じく西宮市内に新研究所を落成。ところどころに鉄骨を使用し、当時の西宮では最も高い建物だった研究所には、教育機関である「大王文化学院」が置かれたといいます。

西宮の宮前町に新築した里見日本文化研究所

西宮の宮前町に新築した里見日本文化研究所

 この研究所で、里見は従来の神がかり的な国体論とは一線を画した「国体科学」の研究に励み、『国体に対する疑惑』[昭和3(1928)年4月]および『天皇とプロレタリア』[昭和4(1929)年11月]という大ベストセラーを書き上げました。また、『日蓮は甦る』[昭和4(1929)年11月]を上梓して日蓮主義の新境地を開きます。

 昭和6(1931)年11月、諸事情から研究所は京都に移り、翌年3月には篤志家の支援を得て新研究所が完成しました。時は折しも、血盟団事件や五・一五事件など「昭和維新」を目指す運動が盛んでした。けれども、そうした急進的な政治運動と里見は一線を画し、科学的・合理的な国体論の樹立を目指して研究活動に没頭します。

京都市吉田本町の里見日本文化学研究所

京都市吉田本町の里見日本文化学研究所

 それは、『天皇の科学的研究』[昭和7(1932)年7月]、『国体の学語史的管見』[昭和8(1933)年8月]を経て憲法の研究へと及び、昭和9(1934)年5月には『帝国憲法の国体的研究』を公刊するに至ります。その後、昭和10(1935)年2月に「天皇機関説」が政治問題化すると、「機関説撃つべくんば主体説共に撃つべし」として憲法正解運動を展開しました。

 昭和11(1936)年11月、東京・武蔵野の現在地に研究所が移されます。三階建ての瀟洒な建物は、大東亜戦争中の烈しい空襲にも消失を免れましたが、道路拡幅のため昭和44年に惜しくも解体されてしまいました。

武蔵野市関前に移転した里見日本文化学研究所

武蔵野市関前に移転した里見日本文化学研究所

 研究所の東京移転後も、里見は弛むことなく憲法の研究を続け、昭和13(1924)年9月に集大成ともいうべき『国体法の研究』(初版)を刊行します。「国体」の本質たる天皇統治のありようを示した国体法(帝國憲法第1条~第3条)について詳細に解き明かした同書により、里見は昭和16(1941)年12月に立命館大学から法学博士の学位を受けました。
 なお、同年5月から里見は同大学法学部で憲法の教鞭を執り、翌年4月から同大学に新設された国体学科の主任教授を勤めています。

立命館大学国体学科で教壇に立つ里見先生

立命館大学国体学科で教壇に立つ里見先生

 昭和18(1943)年11月から『日本国体学』の執筆に取り掛かる中で数万冊に及ぶ蔵書を分類することとなり、翌年4月には整理が完成しました。これらの蔵書は、現在も《大王文庫》の中に収められています。

 戦局の悪化に伴い、昭和20(1945)年3月から里見は秋田県に疎開しますが、敗戦後の10月末、戦火を免れた研究所に帰還しました。昭和22(1947)年10月、占領軍の命により里見は研究所の所長から追放されてしまいますが、《国体科学研究所》の看板を掲示して追及をかわし、機関誌の『国体戦線』に匿名ないし変名で書き続けます。

 昭和26(1951)年6月に追放解除となるや公然と活動を始めました。『国体文化』と改めた機関誌上に「大日本国憲法案―日本国憲法改正里見案」を発表する[昭和33(1958)年7月号]など憲法改正運動を展開します。昭和31(1956)年11月に里見を代表とする宗教法人・立正教団が設立されると、研究所も傘下に組み込まれました。

 昭和49(1974)年4月18日に里見が帰寂した後に所長となった令妹の大窪梅子が平成11(1999)年3月26日に帰寂してから所長は空席となりましたが、平成27年(2015)に研究所創設九十年を期して金子宗徳が第三代所長として着任、所長を中心に活動を展開しています。

【里見岸雄先生とは】

〔滅後四十年〕里見岸雄博士の学業も併せてご覧下さい。