【書評】西尾幹二・竹田恒泰著『女系天皇問題と脱原発』(飛鳥新社)

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根拠なき罵詈雑言

「女系天皇」と「脱原発」―何とも珍妙な取り合はせだ。帯には「タブーなき憂国の白熱対論!」と銘打たれてゐるが、「根拠なき他者への罵詈雑言」といふ印象を受けた。PARTⅠ「天皇後継を巡る政治的策謀」では、古川貞二郎(元内閣官房副長官)・羽毛田信吾(元宮内庁長官)、PARTⅡ「女系天皇容認論の黒幕」では田中卓(元皇學館大学総長)・所功(京都産業大学名誉教授)・高森明勅(日本文化総合研究所代表)の各氏を取り上げ、憶測に基づく発言を繰り返す。

官僚が血眼になつて取り組むことといったら、金か名誉じゃないですか。さすがにこの案件は金にはならないですから。ではどんな名誉かと考えた時に、もしかしたら皇室にメスを入れるところに、高揚感を感じる人達なのかと思います。

神社界では男系維持ということが確立されているわけです。なので田中先生は、困った存在になっている。ですから神社関係の会合などで、田中先生が呼ばれることはないですね。(以上、竹田氏)

彼(高森氏―金子補足)は学問的実力があるのに大学の職が得られなくてね、それで私は彼の就職のために運動もしたんですけれども、うまくいかなかったんです。……それが、女系論とどう関係あるのかもちろんわかりませんけれども、なにかに調子をあわせたのかなあ。(西尾氏)

さも自らが情報通であるかの如く吹聴しつゝ、肝心なところは「もしかしたら」、「困った存在」、「なにか」と思はせぶりな科白で韜晦する。因みに、田中氏は平成十三年に大病を患ひ、奇跡的に回復されたものゝ左手足が不自由な状態にある。これは公知の事実であり、竹田氏とて知つてゐる筈だが…。
韜晦といへば、旧皇族の末裔が宮家の婿養子になるといふ方策が最上と論ずる西尾氏に対して竹田氏は言質を与へない。女性宮家の実質的創設に繋がりかねないと考へてゐるからだらうか。
PARTⅢ「雅子妃問題の核心」では、二人して皇太子殿下および同妃殿下について論つたあげく、西尾氏は「基本的に皇室関連については言論の自由がないから、もう仕方がないと諦めました」などと云ふ。そんな了簡ならば最初から口にするなと、途中で本を閉ぢたくなつた。

 「伝統」と「原理」と「信仰」

どうやら、両氏は「天皇」を合理的思惟の対象とすることじたいに違和感があるらしい。PARTⅡの序文にあたる「『天皇』の原理とは何か?」において、竹田氏は次のやうに述べてゐる。

 ……重要なことは、たとえばキリスト教におけるマリアの処女懐胎やキリスト復活を、合理的、科学的に否定することが、信仰という西洋文化においてまったく不毛であるということ同様に、二千年以上日本の国柄の中心であらせられた「天皇」の存在を解剖学的に分析するのではなく、いかに伝統を護るかという視点であろう。「天皇」の原理そのものを変えてしまいかねない議論は、よほど慎重でなければならない。

「いかに伝統を護るかという視点」に立ち、「『天皇』の原理そのものを変えてしまいかねない議論」に対して警戒心を露はにしてゐるが、いつたい、竹田氏の云ふ「伝統」や「原理」とは何か。
「伝統」とは事実としての「慣習」そのものではなく、歴史的反省を経て形成される意識である。かうした意識の形成に際して「原理」は基準となるが、それじたいは超歴史的な理念であり、「伝統」そのものではない。
そもそも、「理」といふ文字を含む以上、その確立に当たつては合理的考察を徹底すべきではないか。里見博士は「国体」を以て「原理」としたが、だからこそ「国体」の内実に関して検討を重ねた。
「皇統に属する男系の男子」が皇位を継承するといふ現行皇室典範の規定は「伝統」に基づくものだが、そのまゝ「原理」たり得るのか。男とは何か、女とは何か。男女が結ばれて子を為すことにより家族を形成し、それが天皇を戴く民族共同体へと発展することの意義。それは、「人間とは何か」、「生命とは何か」といふ問題に通ずる。「原理」と称するなら、そこまで突き詰めて考へねばならない。
西尾氏は「信仰であるからこそ、天皇が男でもいいし、女でもいいなんていうような考えにはならなくて、合理性というものは排斥される」と、「信仰」の名において「理」じたいを否定するが、「理」によらぬ「信仰」など自己の絶対化に過ぎない。
(金子宗徳)

(「国体文化」平成24年3月号所収)

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