〔巻頭言〕安倍首相談話の意義と限界

「国体文化」平成27年9月号 巻頭言

 終戦七十年の節目にあたり、安倍首相は八月十四日に談話を発表した。そも〳〵、史実の確定や歴史解釈は専門の学者による慎重な研究を経るべきものであり、行政権の長でしかない首相が特定の歴史認識を公式談話として発表することに違和感を覚える。

 だが、終戦五十年を期として発表された村山首相の談話に「植民地支配と侵略によつて、多くの国々、とりわけアジア諸国の国々に対して多大の損害と苦痛を与へました」、「あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」といふ表現が織り込まれ、我が国の国威と国益が損なはれてゐる以上、それを実質的に打ち消す必要があり、安倍首相は「あの戦争には何ら関はりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と明言したことは評価に値しよう。

 たゞ、個々の歴史認識には納得できぬ点がある。世界恐慌に伴ひ、経済のブロック化が進む中で、我が国は世界の大勢を見失ひ、第一次世界大戦の災禍を背景とした国際秩序への「挑戦者」となつてしまつたといふけれども、パリ講和条約において人種差別撤廃提案が否決され、西洋列強による植民地支配も続いてゐた以上、当時の国際秩序は明らかに不公正であつた。不公正な国際秩序に対する「挑戦者」となることの何が悪いのか? 公正な国際秩序を実現する力量を欠いてゐたことが問題なのだ。

 さうした無力さに対する反省がないゆゑに、「自由、民主主義、人権といつた基本的価値」を隠れ蓑にする国際金融資本による独善的な世界支配を克服しようとするどころか無批判に追認する代物となつてゐる。
(金子宗徳)

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