明治節制定と田中智學

里見日本文化学研究所所長・亜細亜大学非常勤講師 金子宗徳
本誌掲載分(全文)〔PDF版〕

 生まれて始めての悲しみ

 明治四十五(一九一二)年七月十九日晩、夕食の卓に就かれてゐた明治天皇は「眼が瞖むを覚ゆ」と仰るや椅子から立ち上がられ、そのまゝ御昏倒あそばされた〔『明治天皇記』〕。翌日、尿毒症と診断される。以後、新聞は御病状を伝へるものゝ、予断を許さない状況が続く。宮城前には御恢復を念ずる多くの国民が集まつた。

 その当時、立正安国会の総裁であつた田中智學は本部である静岡県・三保の最勝閣に居たが、「此の上は仏天にお縋りするの外ない」として、御平癒の祈禱を朝昼晩に行ふ〔『田中智學自伝』(以下、『自伝』)〕。

(前略)此の願意が必ず貫徹するか否かといふ自信はない、なくても何でも自分の誠心誠意の上からジツとして居られないのである、今は陛下の御尊体の上といふよりは、我々の心がどうしても『あゝさうか』と言ツて居られないのである、悶へるといふのは斯ういふことをいふのか、悩むとは斯ういふことをいふのか、奮激突進して声天に冲するが如く、香煙縷々として浄室を燻す程に誰も彼も法座に連なるものは半ば狂乱したかの如く、至誠の悃禱をささげた。〔『自伝』〕

 だが、熱禱も空しく、二十九日晩には危篤状態に陥り、翌三十日の零時四十三分に崩御あそばされる。孝明天皇の皇子として御生誕あそばされてから六十年の御生涯であつた。

 明治天皇崩御の報を受けた智學は、「大行天皇御尊霊」と記された御尊牌の前で同日の午前四時から法要を始め、一昼夜に亘つて交替で勤行(読経)する。また、翌日からは朝昼晩に法要を行ひ、七日ごとに「報恩敬悼疏」を奏上した。

 大正元(一九一二)年九月十三日午後八時、明治天皇の御霊柩を載せた牛車が宮城から青山練兵場に設けられた葬祭場に出発する。それに合はせて、最勝閣においても、北は樺太、南は長崎から最勝閣に集まつた約百二十名が智學を導師として遥拝式を行ふ。翌十四日朝、智學らは御霊柩を載せて桃山御陵に向かふ列車を江尻駅(現・清水駅)近くで奉迎した。

 同日夜、御霊柩は桃山御陵に到着し、恭しく埋葬される。翌十五日朝、御大葬に伴ふ儀式は全て終了した。翌十六日は満中陰に当たり、最勝閣では奉弔大法会が開かれた。法要に先立ち、全国から集まつた六百余名が清水小学校に集合し、「欽修明治天皇御報恩奉弔大法会」などと記された幟を掲げて街中を行進する。その後、二十数隻の船で最勝閣に移動し、午後五時から智學を式長とする式員百七名が法要を厳修した。

 この法要で智學が奏上した表白文からは、明治天皇に対する鑽仰の念と共に、民心の悪化に対する強い危機感が伝はつてくる。

(前略)恭ク惟ミルニ、陛下ガ我等ノ上ニ天降ラセ玉ヒシハ、正ク天ノ大運ニ庸リテ、国ヲ興シ道ヲ光揚シ玉フベキ聖応ノ示現出ヅ、是以、御生涯ノ治蹟、悉ク天謨ニ則リ人意ヲ和ス、情理兼竭シテ、万物其所ヲ得ザルハナシ、大ナル哉懿徳鴻業、中外ニ卓越シ、古今ニ独歩ス、抑御即位ノ肇メ、五箇ノ御誓文ヲ以テ神明ニ誓ヒ、天地ノ公道ヲ恢興スルコトヲ宣シ玉フ、国体発揚ノ本領、開国進取ノ国是、全クコヽニ根立ス、ソレヨリ已来、精励治ヲ計リ、世ヲ救ヒ、民ヲ憐ミ、義ヲ正ウシ、道ヲ明ニシ、諸ノ政令治効ニ於テ、一毫ノ遺漏アルコトナク、終ニ以テ万世不磷ノ一大文明ヲ地上ニ確立シテ、宇内人類ヲ恵ミ玉ヘリ、(中略)吾等ガ一朝ニシテ此偉大ナル聖君ニ別レ奉ルコトハ、真ニ人生無比ノ不幸ト謂フベシ、吾等ガ哀悼追慕ノ至情ハ、コヽニ悲歎ノ涙トナリ、感謝ノ涙トナリ、渇仰トナリ、恋慕トナリ、感激極テ心気旺昂シ、哀傷身ヲ毀ルニ至レドモ、悲歎制シ能ハズ、痛哭弭ムコトナシ、万感胸ニ逼テ、覚エズ咨嗟詠歎スル所、凝テ若干ノ文字語言トナラザルヲ得ズ、是レ即チ肺肝ノ声ニシテ、亦是レ天人同節ノ叫ビナリ
(中略)逆徒ノ現出ヲ以テ国体思想ノ反省ヲ促スハ、正シク消極的自覚ナリ、天皇ノ崩御ニヨリテ、国体心ノ渙発ヲ来タセルハ、是レ積極的自覚ナリ、然ラバ即チ陛下ヲ渇仰シ奉ルコト、大ナレバ大ナルホド、之ヲ悲ムコト、深ケレバ深キホド、国民性ノ霊的復活、亦随テ深ク且ツ大ナリト謂フベシ、アヽ生身示現六十一年ノ陛下ハ、霞ハルカニ昇天マシマスト共ニ、法身常住ノ大霊格ハ、常ニ法界ニ遍満シテ、道ヲ護シ民ヲ照シ玉フラン、願クハ大霊長ヘニ此国土民衆ノ上ニ光被シ、特ニ国体擁護ノ大義ニ威霊ヲ仮シ玉ヘ(後略)

 法要の終了後、午後七時から頌徳大講演が行はれ、智學と共に姉崎正治が演壇に立つ。日本宗教学の祖とされる姉崎は、高山樗牛を通じて智學を知り、智學の活動に協力してゐた。青山での御大葬に参列し、桃山御陵での御大葬に供奉した姉崎は、帰京の道すがら途中下車して大法会に参加し、自らの所懐を語つたやうだ。

 翌十七日、新帝の玉体安康大祈願法要が智學を導師として行はれ、さらに十八日から明治天皇の御尊霊に対する御供養として法華八講が開かれる。法華八講とは法華経全八巻を一巻づつ八回に分けて問答・讃嘆する法会で、その様子は平安文学などにも描かれてゐるが、「別して法門上の法味を申し上げる」べく、智學が儀典のみならず法華経の二十八品全てについて問答を作成した。一日につき四品づつ問答・讃嘆して、法華八講は二十四日に結願。

 結願法要に引き続き、明治天皇に殉死した陸軍大将・乃木希典の追弔大法会を厳修し、同日深夜の夜行列車で智學ら八十名あまりが京都に向かふ。翌二十五日、関西の同志を合はせて百五十名が桃山駅から桃山御陵に向かつて粛々と参進、御陵前にて頭を垂れる。同日の夜行列車で智學は最勝閣に戻つた。

 明治の心を以て大正の事を行ふ

 大正二(一九一三)年一月一日、智學は自身が主筆を務める『国柱新聞』に「明治の心を以て大正の事を行ふ是れ先帝の恩育に酬ひ新帝の統化を賛する所以の第一要義なり記せよ此一語」といふ標語を掲げ、「大正皇帝新御の第一新年に於て吾人の言はんと欲する所の要誼」と題する一文を執筆し、無定見なエリートたちを批判する。

(前略)日本国の経営に付ては、何事よりも一番先に知らねばならぬ事を先きに研究するのが、目下の最大急務である、これを閑却しては、政治も学問も宗教も実業も共にぬけがらである、それは何か
日本国体の大思想
である、万事これを本としての上に戦さもせよ銭儲けもせよである、これを等閑にしての進歩や新思想は、断じて破国の悪想である。先帝の進歩主義は、この堅固の基礎に立たれての進歩であるから尊いのである、新帝の新教育も此大思想の上の新知識であらせられるゝ故に、鬼に金棒である、只悲むべきは、大官鋸公多くは五里霧中で徒らに旧を守り或は新を逐ひ、些の大把住なきもの傲然として国の要衝に立ツて、却て天下の志士を軽侮する如き有様は、いかにも憤慨に堪へざる次第である。(後略)

 明治維新から四十五年、大日本帝国憲法をはじめ法秩序が確立し、繊維などの軽工業のみならず鉄鋼などの重工業も発展しつゝある。日清・日露と二度の対外戦争に勝利し、韓国併合により国防における不安定要素を除去し得た。かうした国力の充実を背景として不平等条約の改正も実現し、名実ともに完全な独立国となる。

 けれども、新たな問題が生じつゝあつた。工業化に伴つて生産力は増大したものゝ、その恩恵は末端にまで広がらない。それどころか、日露戦争に際して発行した多額の外債を返済するため国民負担は増えた。かうした情況を背景に、資本主義を否定する社会主義の運動が勃興した。

 また、国防上の危機が去つたことを背景に、選挙権は国民に均しく認められるべきだとする普通選挙運動が盛んになつたり、自我の完成を目指す白樺派が文壇に登場するなど、個人を重視しようとする動きも強まつた。

 かうした思潮に対し、智學は如何に対応したか。大正元(一九一二)年十月二十七日、栃木県内で「国体の権化明治天皇」と題して講演した智學は次のやうに述べる。

(前略)何でも物と云ふものは「道」を離れて仕舞ツたら煩悩執着の根源となツて来る、仏法では貪瞋癡の三毒と云ふものを説いて愛を以て其一つに数へて居る、仏や菩薩の慈悲も、愛と同性のものであるが「道」を離れた愛は許さぬ、此国に於て此国の主人を愛する、主人に忠義を尽くすといふことは、禄を貰ツて居るからその返礼に愛すると云ふので真の道ではない、少なくとも日本の忠孝でない、国の根元が道である、道は我身の本であるからと云ツて、我身の本をば培ふ意味から君臣の大義が生まれる、此大なる倫理の下に立ツた「君臣道」、其君臣道の支配を受けた中に於て孝でも義でも愛でも何でも行はれて行かんければならぬ、斯う立てるのが日本の倫理観、それをごツちやにして、唯何かなしに忠孝なんといふことは古いと言ふが、さう云ふ訳のものではない、此国体の精といふものが現れて忠孝となる、此「国体」といふものは今日始まツたものではない、天照大神の思召、神武天皇の御理想、それが天日嗣の御位にちやんと附いて居る、であるから日本の帝王の位を践めば、此家範則家の道を守らねばならぬ、それをば能く御自覚になツて、其国体の活きた姿となツて現れ給ひたる御方が古今独歩の明君、明治天皇だから、明治天皇様は唯御修養の深いばかりではなく、唯天稟の優れた所の英傑といふばかりではない、素より天稟も優れさせ給ひ修養も篤かツたに違ひないけれども、其修養や其天稟や、必ず我は神の末である、我は国体を躬に行はなければならぬといふ御自覚があツた為に、此永久無限の盛徳を発揮なされたといふことは、明治天皇を解釈すると共に、日本の国体を解決するに於て最大必要なる条件であると私は考へる。

 智學は、「君臣道」として現れた「国体」に対する自覚を喚起せんと様々な活動を展開するも、十分な成果を上げるに至らなかつた。

 《明治会》の設立と「明治節」制定運動

 大正十二(一九二三)年九月一日午前十一時五十八分、関東大震災が発生する。智學は震災を「天警」と受け止め、同年十一月十日に渙発せられた「国民精神作興ニ関スル詔書」の趣意を広めようとした〔拙稿「八十八年前の大震災」・「大御心を『掛け流し』にするなかれ」(『国体文化』平成二十三年五月号・七月号)参照〕。

 詔書渙発一周年にあたる大正十三(一九二四)年十一月十日を期して、智學を総裁とする《天業青年団》が「諫国デー」運動を開始する(同青年団の創設者は里見岸雄であつたが、里見が欧州に留学したため、父である智學が指揮してゐた)。その名の通り、立正安国の精神を社会に根付かせるため、毎月十日に様々な街頭活動を行つた。

 大正十四(一九二五)年一月二十五日に行はれた新年会の席上、智學は二月における「諫国デー」運動のテーマとして「大帝誕生日たる十一月三日を以て国家的祝日となすべき」ことを提案する。この提案は参加者の賛成するところとなり、この日のうちに六百名の署名が集まつたといふ〔『天業民報』(大正十四年一月三十一日)〕。当時、明治天皇が崩御された七月三十日が「明治天皇祭」と呼ばれる祭日だつたが、これは先帝の御命日としてゞあり、明治の御代を顕彰する日ではなかつた。

 同年二月十日、それまでに集まつた一万八〇一二名の請願署名を衆議院に提出する。同時に提出した請願書に曰く。

恭ク惟フニ大帝中興ノ御偉業ハ古今ニ超絶シ宇内ニ光耀ス、王政復古ノ大業、帝国憲法ノ御制定、国民道徳確立ノ勅教、数度ノ大戦勝、文武百般ノ興立、沢々タル積慶ノ仁政、明々タル重暉ノ洪範、咸ク万代ノ標式タラザルハナシ、就中国体ヲ闡明シテ建国ノ大精神ヲ中外ニ光揚シタマヘル聖断大謨ニ至リテハ実ニ神武大帝ノ建国ニ比シ奉ルベシ、昔者天智天皇ヲ中宗ト仰キ国忌ヲ百代不廃ノ永典ト為セルニ准例シ、爰ニ国民崇仰ノ帰スル所、宜シク国家万代ノ永典トシテ明治大帝御生誕ノ聖日タル十一月三日ヲ以テ之レヲ中興節或ハ明治節ト称シ以テ紀元節ニ准同セル国典祝日ト為スベキモノト思考ス
願クハ貴院全会一致ノ御賛同ヲ以テ可決採用アランコトヲ懇願ス

 同月二十一日には貴族院にも請願署名が提出されたが、審議未了のまま会期終了を迎へる。この後、請願運動は同年五月に発足した《明治会》へと引き継がれる。《明治会》は、智學による「明治天皇御製講演」の聴講者が「只聴いて感心した丈けではすまない、此の感心といふことばを事実に現はさなければ、明治天皇に対しても相済まない、又講者たる先生にも申訳がない」として設立されたもの。

 大正十五(一九二六)年二月二十日、再び請願書が提出されたものゝ、再び審議未了のまま会期終了となる。だが、智學の御製講演は活況を呈してをり、明治天皇鑽仰の国民意識は醸成されつつあつた。

 同年十二月二十五日、大正天皇が崩御あそばされ、昭和天皇が即位される。これに伴ひ、翌年から「明治天皇祭」は国家が定めた祭日ではなくなることが確定的となり、「明治節」制定を求める智學らの動きは加速する。

 昭和二(一九二六)年一月十四日、若槻礼次郎内閣の各大臣に宛てゝ請願書を提出し、同月十八日には改めて貴衆両院議長に請願署名を提出する。さらに、同月二十三日に開催された「国体主義団体連合大会」に約四百名が結集し、「明治節」制定の促進を求める決議を採択した。
一月二十六日、貴衆両院は「明治節」制定の建議を採択したが、政府内部で三大節〔四方節(元日)・紀元節・天長節〕と同様の扱ひとするか「明治天皇祭」に準ずるものとするか意見が分かれたやうだ。

 三月三日、「明治節」制定の詔書が渙発せられた。

朕カ皇祖考明治天皇盛徳大業夙ニ曠古ノ隆運ヲ啓カセタマヘリ茲ニ十一月三日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

 翌四日には「休日に関スル件」(昭和二年勅令第二十五号)が定められ、こゝに国民の請願を契機とする祝日が始めて制定されたのである。

 三月二十日、青山会館で「明治節制定請願々意貫徹感謝大会」が開かれた。大雪にもかかはらず、数千名が参集して「明治節」制定を祝ふ。式典の最後に智學が式辞を読み上げた。

(前略)今ヤ君意民情ニ応ジテ天上ノ一声、万古ノ国典コヽニ奠ル、今後ニ処スベキ国民ノ奉答ハ、唯此聖旨ヲ奉体シテ、此祝節ヲシテ有意義且ツ有効ナラシムルノ方ヲ講ジ、祝日制定ノ内容ヲ充実シテ、民心作興ノ良謨ヲ拡ムルニアリ(後略)

 先人たちの生き方を学ぶ端緒に

 それから十九年が経つた、敗戦後の昭和二十一年十一月三日、日本国憲法が公布された。この日になつた理由は諸説あり、定説はないが、明治の盛代と日本弱体化を目論む憲法とは結び付かない。

 その後、昭和二十三(一九四八)年七月二十日に祝日法が制定される。これにより、明治の御代を顕彰する「明治節」は廃止され、代はつて「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨とする「文化の日」が制定された。これは、日本国憲法の公布日であるといふ事実を前提とした文言であり、明治天皇との繋がりを断ち切らうとする内容だ。

 「文化の日」が制定されてから六十七年、私たちは「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことが出来たであらうか。日本国憲法の下、過去の文化的伝統から断ち切られ、国家としての自由を奪はれ、他国に領土を侵略されたままではないか。こんな欺瞞に満ちた祝日は不要だ。

 それより、政治的には国際的対立が激しくなる一方で、経済的・文化的には国境を超えた交流が進む今日、明治天皇の御生誕日である十一月三日を「明治の日」とすることで、祖国の自由と平和のために戦ひながら、「よきをとりあしきをすてて外国におとらぬくにとなすよしもがな」(明治天皇)の精神で文化を創造した先人たちの生き方を学ぶ端緒とすべきではないか。

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