[全文公開]明治天皇の御事績と近代日本(宮田昌明)

文学博士(京都大学)・一燈園資料館「香倉院」・里見日本文化学研究所客員研究員 宮田昌明
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本日は桃山御陵にご参拝、ご苦労様です。昨日の京都は雨で冷える一日でしたが、本日は好天に恵まれました。明治天皇の御製に次の一首があります。

あさみどり澄み渡りたる
大空の広きをおのが心ともがな

青空のような心の広い人間でありたい、そのような気持ちを読まれた歌です。本日は晴れの特異日として知られる日ですが、明治天皇の御遺徳の表れかとも思われます。

改めまして、本日十一月三日は、明治節、すなわち明治天皇の御誕辰日です。本来は明治天皇の御遺徳を偲ぶ日なのですが、現在は文化の日とされ、明治天皇の御誕辰日であることを知らない人も少なくない、というのが実情です。

さらに残念なことに、現在の歴史教育において、明治天皇の御事績や御遺徳が児童、生徒に紹介されることはありません。近代日本の形成において、明治天皇がどのような役割を果たされたのか、そうした基本的かつ重要なことが、現在の日本国民の間でほとんど共有されていないのです。

今日は明治天皇の御生涯を簡単に紹介しながら、その御事績、御遺徳に関する国民的理解を深めていくための一助になればという思いで、簡単なお話をさせていただきます。

明治天皇は、嘉永五年九月二十二日、新暦で一八五二年十一月三日に御誕生あそばされました。ペリー来航の前年です。誕生したのは、母・中山慶子の父・中山忠能の家でのことです。祐宮の宮号を父・孝明天皇より与えられました。

安政三(一八五六)年、祐宮は四歳で禁裏御所に移られます。父・孝明天皇は祐宮に宮中行事を多く見せられるなど、自ら教育に熱心に当たられました。祐宮は五歳で初めて和歌を詠み、以後、孝明天皇自ら添削をされています。明治天皇は和歌を大切にされ、生涯で九万三千首以上もの御製を詠まれました。万葉風の五七調の和歌が多く、その内容には質実な御人柄がよく表れています。

万延元(一八六〇)年親王宣下を受けられ、睦仁と名付けられました。ただ、残念なことに、孝明天皇は慶応三年(一八六七)一月に三十六歳で崩御あそばされました。祐宮十四歳のことでした。そしてほどなく明治維新を迎えます。とはいえ、明治天皇にとって、孝明天皇の存在は非常に大きな影響を後々まで残しています。

即位されて以降の明治天皇の御生涯を理解する際、前期と後期にわけて理解するのが便宜かと思います。明治十八(一八八五)年に内閣が創設されます。以後、明治憲法の起草作業が本格化しますが、そのあたりを大まかな画期として、前後にわかれるのではないかと思います。

内閣制度が導入されるまで、明治政府は安定せず、経済政策も多くの失敗や混乱を繰り返していました。そうした中で日本の近代化が実現できたのは、国民の多大な負担と努力、創意工夫によるものでした。たとえば、明治政府は小学校を全国に作るという方針を打ち出しますが、現実に学校を作り、生徒を通わせたのは、全国の村々と国民の努力によるものでした。また、政府主導による殖産興業も中々うまくいかず、経済発展や先進技術の導入も、多くは民間の努力によって成し遂げられました。

そうした時代、青少年期の明治天皇は、和漢の古典、後にヨーロッパの思想も含めて学問を修められた他、乗馬をお好みになっていました。そうした合間に明治天皇は、全国への行幸を繰り返されております。明治天皇の行幸は、慶応四年(一八六八)の大坂行幸および東京行幸に始まります。江戸時代の歴代天皇は、京都御所内にとどまり、御所外に出ることはありませんでした。文久三(一八六三)年に孝明天皇が下賀茂社(下鴨神社)および上賀茂社(上賀茂神社)に攘夷祈願の行幸を行っていますが、これは、寛永三(一六二六)年の後水尾天皇による二条城行幸以来の出来事でした。

明治五(一八七二)年、廃藩置県の翌年に行われた行幸は、西日本を中心に、大阪、京都、兵庫、下関、長崎、熊本、鹿児島に及びました。西郷隆盛が付き添い、軍艦龍驤に乗艦した他、乗馬や徒歩を併用しています。その際、神社や天皇陵、陸海軍演習場、官庁の他、京都府中学、開成所(大阪)、大阪医学校、鹿児島の陶器会社や紡績所にも巡幸され、近代化のための国民の努力を御視察あそばされています。

明治九(一八七六)年の奥羽巡幸では、栃木、福島、宮城、岩手、青森、さらに津軽海峡を経て函館に渡り、海路で横浜へ還幸されています。明治十一(一八七八)年八月には、北陸、東海道に巡幸され、京都、埼玉、群馬、長野、新潟、富山、石川、福井、滋賀、岐阜、愛知、静岡、神奈川を巡っておられます。行幸先の各地は、大変な敬意を表して明治天皇を迎えました。

明治天皇はそうした遠方への行幸の合間にも、明治五(一八七二)年の新橋‐横浜間の鉄道開通の際、御乗車あそばされたり、肉食をなされたり、西南戦争の最中に開催された第一回内国博覧会開会式に行幸あそばされたりもしています。明治天皇は、地方の実情、国民生活、近代化の状況に常に強い関心を持っておられ、近代化の象徴となる出来事に率先して関わる役割も果たされていました。

こうした行幸は、後の昭和天皇、そして今上陛下にも引き継がれます。

明治天皇以前の歴代の天皇は、日本国および日本国民の安寧、発展を祈ることに努められてきました。古来より天皇の統治は、シラス、シロシメスと表現され、これは天皇が日本の今の状況を知ることを意味しています。それはすなわち、国民の状況や気持ちに寄り添うことです。歴代の天皇は、日本国民の気持ちに寄り添いながら、その安寧、発展を祈ることを御自身の務めとされてきました。それが上記のような明治天皇の青年期の行動にも表れていたのです。

明治十八(一八八五)年に内閣制度が導入され、明治二十二(一八八九)年に大日本帝国憲法が発布されます。明治憲法の起草に際して、明治天皇はその理念や具体的内容について真剣に学ばれました。明治天皇は、自らの名で出される法令のすべてを理解されました。明治憲法の理念とは、日本は天皇を中心としながらも、天皇、政府、国民が法に則り、それぞれの責任を果たすことによって成り立ち、発展していく、ということです。明治憲法は近代憲法ではありますが、その実態は、日本の伝統にヨーロッパの法制度を組み入れながら、それを再生させたものでした。天皇の行政権を政府が、立法権を議会が代行するということは、幕府に行政、外交を委任した孝明天皇の姿勢に通じます。明治天皇は、憲法の起草審議に臨みながら、日本の伝統が近代に通じることを実感され、伝統を重んじる姿勢をむしろ強められたのではないかと思います。

憲法が発布され、議会が開設された後も、政府と議会の対立など、政治的混乱は続きました。しかし、政府の安定性は飛躍的に高まります。その一方で、日清・日露戦争など、国民に多大な犠牲が強いられる事態が生じました。明治天皇は内閣発足の時点で三十二歳、憲法発布の時点で三十六歳を迎えられています。明治天皇の後半生は、巡幸により国民と直接接する機会は減りますが、国民生活を左右する政治や国際環境の安定を望み、あるいは部分的に政治に関わりながら、また、二度の戦争に伴う国民の負担を憂慮しながら、自らを厳しく律し、道徳的であることによって、御自身の存在を政治家や国民生活に対する戒めとし、あるいは、労苦を共にしようとする姿勢を強めていきます。明治天皇の御製に次のようなものがあります。

こころざす方こそかはれ国を思ふ
民の誠はひとつなるらむ
をちこちにわかれすみても国を思ふ
人の心ぞひとつなりける

この和歌は、明治天皇が日本国民の気持ちに寄り添いつつ、日本というものが日本人の心とその協和によって成り立っていることを詠んだものかと思います。明治天皇の御製には、類似した主題を読み直したかのような和歌が多くあります。芸術家には、自分が納得するまで、類似した作品を作り続ける方が多くいらっしゃいます。言葉ですべてを表現することは難しく、明治天皇は御自身の繊細な気持ちを表現するために、多くの類似する和歌を詠まれたのではないか、とも思われます。
また、戦争で犠牲になった国民について、次の御製を詠まれています。

くにのため心も身をもくだきつる
人のいさををたづねもらすな
はからずも夜をふかしけりくにのため
命をすてし人をかぞへて

こうした国民の犠牲に対する思いも、今上陛下に引き継がれています。

明治天皇は明治四十五(一九一二)年七月二十九日午後十時四十分に崩御されます。崩御を大正天皇による祚践につなげることとし、公式発表では三十日午前零時四十三分に崩御とされましたが、いずれにせよ、明治天皇の不例から崩御に至る政府発表は、国民に多大な衝撃を与えました。それは、明治天皇がいかに国民の絶大な崇敬を受けられていたかを証するものでした。

ではなぜ、明治天皇はそれほどまでに国民の崇敬を受けられたのでしょうか。それは、制度改革や経済の発展など、日本の近代化を成功させ、健全に機能させるのは、何より人間の徳性や社会の信頼関係であることを、天皇御自身が国民の労苦や思いに寄り添いつつ、自らの行動で示し続けたからであり、また、そうした明治天皇の大御心を国民が感得していたからです。

先ほど、明治の近代化は、国民的努力によるものであった、と申し上げました。この点は、ヨーロッパの支配を受けたアジア諸地域や中国などと比較した時、強く思われます。それらの諸地域は、ヨーロッパの支配下に置かれたばかりか、その後、多くの地域が社会主義や共産主義の影響を受け、独立を達成した後も軍事独裁政権を成立させました。明治時代の日本と比較した場合、東アジアや東南アジア、あるいは現在の中東、アフリカ地域に至るまで、様々な混乱や対立、惨禍をもたらした要因として、民間主導による近代化経験の欠如、国民的倫理や協調精神の未成熟さというものが非常に大きかったのではないか、と考えられるのです。

戦後歴史学において日本近代史は、封建的とか絶対主義、帝国主義などと偏狂的評価を受けてきました。また、近代化のための国民的努力には、政府による収奪か、あるいは対外侵略かといった、被害か加害かという非常にゆがんだ、侮蔑的な評価ばかりが与えられてきました。これらは、体制批判や社会不安を煽るために歴史を利用した結果であって、そうした政治的な歴史理解は早急に終わりにしなければなりません。

明治二十三(一八九〇)年に発布された教育勅語は、親兄弟、夫婦から友人、さらに一般の人々への友愛や、非常時における国への貢献などを説いています。そこに一貫しているのは、親疎を問わず、人を思いやり、人のために尽くそうとする、貢献、奉仕の精神です。現在の私たちの生活の中でも、親兄弟や親しい友人に対してであっても、相手を大切にし、思いやりを持つという自覚的な努力が大切です。教育勅語とは、現在に通ずる道徳であると共に、そのような倫理を多くの国民が自覚し、共有することで近代日本の基礎が作られてきたという、君民一体の歴史的な実績として、評価されるべきかと思います。

最後となりますが、歴史理解においても戒めとすべき御製があります。

文字をのみよみならひつつ読む書の
心をえたる人ぞすくなき

明治天皇は国民の気持ちに寄り添うことで、国民主体の近代化を支えられました。歴史を学ぶ際にも、事実を知るだけでなく、その心を理解しなければならない。明治天皇につきましても、御事績と共に、その御心、御精神が多くの国民に理解されますよう、また、今後の日本が皇室を中心としてさらに発展していけるよう、本日御参拝の皆様方と共に努めて参りたいと存じます。ご静聴、ありがとうございました。

(平成二十七年十一月三日・明治天皇伏見桃山陵)

「国体文化」平成28年1月号所収)

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