里見日本文化学研究所主任研究員 金子宗徳
淵源としての田中智學
「日本国体学」は田中智學によつて創唱された。智學の本名は巴之助。医師であつた多田玄龍の三男として幕末の文久元年11月13日(1861年12月14日)に誕生した ― 本来の氏は源義家の流れを受け継ぐ田中であり、多田は父の自称 ― けれども、幼くして両親を失つたゝめ、日蓮宗の僧侶に預けられた。後に出家して「智學」といふ法号を授けられ、日蓮宗大教院〔現在の立正大学〕で学ぶも、折伏より摂受を重視する宗門の退嬰的な風潮に疑問を抱き、また西南戦争を契機として「国体」問題を解決せねばならぬと痛感し、明治12(1879)年春に還俗して宗門から離脱する。
在家の立場から日蓮仏教の普及活動を目指した智學は、明治17(1884)年1月に《立正安国会》を結成した。会の名は祖師・日蓮の遺文『立正安国論』に基づくが、回顧録「わが経しあと」に記された以下の発言などからは、超歴史・超国家的な宗教的真理の確立〔=立正〕と近代日本といふ限定された時空における世俗的日常の安定〔=安国〕とを結合しようとする志向が存在してゐたことが看取される。
宗教の五綱〔教・機・時・国・序といふ日蓮における立宗のための批判基準 ― 金子補足〕だの三大秘法〔本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目といふ日蓮における信仰の要点―金子補足〕だのといツて、それを教学上でせせツてそれで能事了れりといふものでない、五綱教判も三大秘法も、実際国の活きた力とならなければ末法応時の大法とはいへない(原文正漢字、以後の引用文も同様)
その後、明治22(1889)年2月11日に大日本帝国憲法が制定されると、「憲法を受け取ツた国民の一員として、法律家よりも憲法学者よりも、もツと密接な関係を憲法にはもツて居る」〔「わが経しあと」〕として、帝国憲法の公開講義を行ひ、聖徳太子が神儒仏の三教を融合する形で制定した憲法十七条の精神が帝国憲法にも受け継がれてゐると、宗教宗派を超えた真理と近代国家とを結び付けようと試みた。
だが、急速な工業化に伴つて、公害や貧困などの社会問題が表面化する。明治25(1892)年6月、足尾銅山の鉱毒問題について田中正造が帝国議会で初めて質問を行ひ、明治26(1893)年11月には、東京のスラム街に関する松原岩五郎のルポルタージュ『最暗黒の東京』が出版された。日清戦争に勝利した日本は北東アジアで存在感を示したものゝ、自由主義や社会主義の影響を受けた青年知識層は国家に対して冷淡な態度を示す。
そして、明治43(1910)年の初夏、その危惧は現実のものとなる。明治天皇弑逆の大陰謀を企てたとして、幸徳秋水ら多数の社会主義者が拘束された。いはゆる大逆事件だが、強い衝撃を受けた智學は「大逆事件に於ける国民的反省」を発表する。この中で、智學は、大逆事件の背景に世俗的日常に埋没して宗教的真理に否定的な「人心悪」・「時代悪」を見出し、さうした「人弊及び時弊の潜在悪」を打破し得るのは「天皇陛下聖明の大威徳」のみであり、国民は事件を「天の警告」として「国体観念」を自覚すべきと論じた。これは、危機について語ることにより、逆説的に真理の体現者たる天皇を中心として仰ぐ日本国体を示さうとしたものと云つてよからう。
「日本国体学」は、かうした思想的営みの延長線上に位置づけられる。明治44(1911)年8月に行はれた《立正安国会》の講習会で、智學は「日本国体学」といふ語を初めて用ゐる。その趣旨は、「日本国体学の創建」として『日蓮主義』〔明治44(1911)年9月号〕に掲載された。
『日本国体学』は、日本人よりも世界の人に要用なる大学問なり、〔中略〕従来吾国体を説くもの、只日本々位にして世界本位の見地よりせず、其の説たとひ美なりともその見甚だ陋狭、所謂排他自尊のねごとに過ぎず、斯る輩によりて扱はれ来りし国体論こそ真に災難の至りと謂ふべけれ。
吾等慨然として茲に吾が国体の真要を掲げて、そが魏々乎たる世界的大学問の風容ある趣を知悉せしめんとして、始めて組織的体系の下に之を講ずるに至りぬ。
智學は、この一文の中で「真理正義の目標は非現代的なり超時代的なり、若し新といはゞ時の新よりも新なり、若し古といはゞ時の古よりも古なり、乃ち宇宙を以て一体と為し、万古を以て一息と為すもの是れなり」とも述べてゐる。要するに、「日本国体学」とは普遍的真理に照らして日本国体の本質を吟味しようといふ営みであり、だからこそ単なる愛国心の吐露ではなく「学」を自認したのだ。
智學の国体学説は『日本国体の研究』や『日本とは如何なる国ぞ』などにまとめられてゐる。
智學の国体学説の特色として、国家の構成要素に関する議論が挙げられよう。国家は一般的に「領土」・「主権」・「国民」の三要素からなるが、日本国家に限り、「神」〔=道の主〕・「道」〔=神の心〕・「君」〔=神の代表〕・「民」〔=道の奉行者〕・「国」〔=道の根拠地〕といふ五大要素からなると智學は論ずる。とりわけ注目すべきは、「君」即ち天皇の上位に「神」および「道」を置いたといふ点だ。天皇による統治は決して恣意的なものではなく、「道」といふ「神」の心、換言すれば超越的真理に基づいて行はれることを含意する。こゝにも、「国体」を超越的真理との関はりの中で捉へる発想が窺へよう。
では、智學は何を真理探究における公準として採用したのか。改めて云ふまでもなく、智學は日蓮を祖師と仰ぐ仏教者だ。当然のことながら、仏教〔法華哲学〕が公準となつてゐる。
「国体」の定義に関しても、法華経方便品の十如是に基づき、「『体の相』であり、『体の性』であり、又、『体の力作因縁果報本末究竟等』であらねばならぬ、かくして『体』を解すれば『日本の国体』といふものゝの中には、理義としての名の下に『宗』『用』『教』を具し、組織として『相』も『性』も『力』も『作』も『因』も『縁』も『果』も『報』もあツて、それが『本末究竟して等しき』不抜の道理を有して居る」として、「『国体』、『国の体』、『国がそのまゝ体』、『国の心』と『国の姿』、国のあらゆる有せるものゝ総称、即ち『国の本体』その本体が規則条然たる体系に結成されて居る国の成立、それを『国体』といふ」(『日本国体の研究』)と、単なる「国柄」といふ現象に留まらず、「国柄」を「国柄」たらしめる根源的存在としての「国体」に着目する。
大成者としての里見岸雄
かうした智學の議論を、さらに発展させたのが里見岸雄である。岸雄は智學の三男として明治30(1897)年3月17日に誕生したが、後に親族である里見家の婿養子となり、その姓を名乗つた。里見は、智學に中学校を退学させられるなど紆余曲折を経た後、早稲田大学文学部哲学科を首席で卒業し、欧州に渡航する機会を得る。英独仏に滞在して語学を習得するだけでなく、「国体」に関する欧文(英語およびドイツ語)の著述を発表するなどの成果を上げた。
帰国後の大正13(1924)年十二月に里見は《里見日本文化研究所》〔現在の里見日本文化学研究所〕を開設し、大正十五(1926)年2月に機関誌『日本文化』を創刊する。「世界に於ける最大の奇蹟ともいふべく、世界の精神ともいふべき日本国体の徹底的唱導」、「学術の民衆的解放」、「日本文化の精神を遠く欧米の人々に告げ知らせる事」といふ標語や、「創刊の言葉」に記された「私共の唱導する日本国体論は右に非ず左に非ず、実に坦々たる一実中諦の王道であります。人類の世界に真の幸福と正義とを齎すべき綜合統一的の根本文明であります」といふ一節からは、世界に通じる日本国体論への思ひが汲み取れよう。
この頃、大逆事件により一度は勢ひの衰へた社会主義運動が産業化の進展に伴ふ階級対立の激化やロシア革命の影響を受けて再び擡頭してゐた。唯物弁証法といふ一貫した形而上学的基盤に基づいて「天皇を戴く日本国体」といふ社会構造を「科学」的に否定し、その破壊を目指すマルクス主義に対して、既成の国体論は観念的である上に断片的で、大正14(1925)年4月に公布された治安維持法において国体変革と私有財産制度否定とを同列に置くなど、資本主義の問題点にも無頓着であつたゝめ、資本家擁護の反動イデオロギーの域を出なかつた。
かうした状況に危機感を抱いた里見は、『日本文化』〔昭和2(1927)年12月号〕に「国体科学を提唱す」といふ宣言を発表する。
吾れ国体科学の目を起す。国体科学とは日本国体学を中枢部と為し、総合史観と国体史観とを左右の翼と為したる日本神話学、比較国体学、比較国性学、政治学、社会学、法律学、経済学、文明史、日本歴史、宗教哲学、各種政策等を総称する日本国体主義文化科学の一大学問叢の謂い也、ここに一団の学徒あり、今や結束を固うし、臥薪嘗胆、以て国体科学の樹立に懸命す。乞ふ刮目してその結果を待て。
これは、仏教を公準とする旧来の「日本国体学」を人文社会学の知見に基づき再構成しようとする壮大な試みであり、マルクス主義に屈服しそうになりつゝも里見は苦闘を続けた。
その過程で執筆されたのが、里見の名を飛躍的に高めることになつた『国体に対する疑惑』〔昭和3(1928)年3月〕と『天皇とプロレタリア』〔昭和4(1929)年11月〕である。後者において、里見は国体を単なる歴史的精華として静態的に把握することの限界を指摘し、創造されつゝある社会的現実として動態的に把握すべきことを説く。
吾等の創造すべき無比の国体は、刻々の現実に存せねばならぬ。若しもこの現実に創造すべき何の国体もなくただ過去の伝統と光栄とを保守してゐる丈なら、国体は、社会の進化と共に、人間行動の変遷と共に無意味にならざるを得ないではないか。国体は永遠に吾人の行動の中に把握されねばならぬ。刻々に変化しゆく高速度テンポの社会に、つねに精神なる人格的共存共栄の実をあげてゆく人格的創造の中に、仰いでつきず望んで涯しなき日本国体の真の栄光は輝くのだ。吾人は今日にあつて、徒らに過去の国体美を懐古主義的に讃歎してゐるのが能ではない。現代の社会に、いかにせば万邦無比の国体を実現し得べきといふ事こそ、吾等の生活の中に要求せられつゝある実際問題だ。
そこで問題となるのは、動態的把握の方法論だ。「国体科学」の根幹に関はる重大問題でもある。
そこで提示されたのが、〈円融弁証法〉だ。「円融」の語は仏教(法華哲学)に由来する。〈唯物弁証法〉のやうに生命体と非生命体とを等しく物質として捉へ、生命体の精神現象を物質的法則に還元してしまふのではなく、精神現象と物質現象が生ずる以上、(妙楽が色心不二門論で説いてゐるやうに)精神とも肉体ともなり得る本性を持つ「生命」こそ人間にとつての実在であり、社会にせよ国家にせよ(物質とも精神ともなり得る)生命固有の法則に基づくと解するより他にない。後に、この〈円融弁証法〉は〈生命弁証法〉と改められるが、かうした基本的枠組に変化はない。
生命は発展を目的として運動する。他の生命体に比して個体としての肉体的能力に劣る人類は、欠点を補ふために体系化能力(=社会性)を発達させてきた。国家もまた、一つの生命体系である。
かうした〈生命弁証法〉に基づいて憲法学や政治学などの研究を重ねた結果、里見は一つの結論に至る。
日本国家の究極的基盤たる民族生命体系の体相たる君民一体、その作用たる統治翼賛、その性質たる忠孝一本、その軌範実践たる皇道天業、その運命結果たる天壌無窮等の一切を包括総称して国体といふ。
かくして、里見は「生命弁証法」といふ一貫した形而上学的基盤に基づいて「天皇を戴く国体」を社会構造として「科学」的に肯定することを得た。こゝに、「国体科学」そして「日本国体学」は大成されたのである。
継承者として為すべきこと
田中智學・里見岸雄といふ先人たちの成果を受け、門下たる我々は何を為すべきか。
まづ第一に、「学」としての精度を高めること。先述の「国体科学を提唱す」にもあつた通り、「国体科学」は領域横断的な学問領域である。里見が歿してから三十有余年、各個別学問領域においては新たな研究成果が蓄積されたにもかゝはらず、十分なフォローがなされてきたとは云ひ難い。加へて、方法論としての「生命弁証法」についても一層の洗練が求められる。同じく領域横断的な日本思想史などの動向なども参照しつゝ、研究を進める必要があらう。とは云へ、「天皇を戴く日本国体」を学問的に無化しようといふ動きに対しては、断乎たる態度を示さねばならぬ。
そして第二に、経済活動のグローバル化といふ世界の現実と真正面から向き合ふこと。〈生命弁証法〉からすれば、経済活動を通じた世界の体系化は想定の範囲内である。問題は、現在進行形のグローバル化が人類全体の「人格的共存共栄」をもたらすか否かだ。この点について、学問的な検討と実践指針の提示が求められる。
以上の二点について、私も微力ではあるが力を尽くしたい。
(「国体文化」平成26年1月号収録)