〔滅後四十年〕 里見岸雄博士の学業 ― 六十余年の歩みを振り返る

里見日本文化学研究所主任研究員 金子宗徳

 はじめに

昭和四十九(一九七四)年四月十八日に里見岸雄博士(以下敬称略)が長逝されてから、本年は四十年目にあたる。里見岸雄は国柱会の創始者として知られる父・田中智學が創唱した《日本国体学》の継承・発展に一生を捧げ、大東亜戦争敗戦後は憲法改正を始めとする国体護持運動に力を尽くしたけれども、「日本的なるもの」を否定する風潮にあつて、その業績は正当な評価を得て来なかつた。

昨今、戦前期の国家主義に関する研究が進む中で、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつゝある。とは云へ、後に触れるやうに里見の学問的足跡は広汎であり、その上、機関誌など一般に入手しづらい刊行物に掲載された著述も多いため、十分に研究が進んでゐるとは言ひ難い。この点については、当研究所としても所蔵資料の整理公開などを行ひ、研究者の便を図つていくつもりだ。

さて、これらの諸研究には三つの問題点が存在する。第一に、各論者が自らの問題関心に引き寄せる形で里見の言動を論じてをり、その生涯全体を踏まえたものとなつてゐない点。第二に、「国体」論を主題としてはゐるが、あくまでも現代とは関係のない過去の遺物としてしか見てゐない点。第三に、先の二点を前提とすれば当然であるが、里見の学業を受け継ぎ、グローバル化時代に相応しい新たな「日本国体学」を樹立しようとする意志を欠く点。

かうした学界の潮流に違和感を持つ筆者は、あくまで国体学を始めとする里見の学業を体系的に把握し、加へて今日的課題の解決に応用することを試み、「人格的共存共栄原理としての『国体』」〔本誌平成十九年八月号〕、「日蓮主義的国体論の成立と展開―里見岸雄を中心に―」〔『保守主義とは何か』(ナカニシヤ出版・平成二十二年五月)収録〕、「政治思想史における里見国体学」〔本誌平成二十二年十一月号〕、「里見国体学における『生命』」〔本誌平成二十三年十一月号〕、「『日本国体学』の今日的課題」〔本誌平成二十六年一月号〕などの諸論考を拙いながらも発表してきた。里見の学業を時系列に従つて整理しようとする本稿もまた、同様の問題意識に基づく。

 萌芽と形成

里見の伝記としては、敗戦直後に書かれた『国体学創建史(下)』〔展転社・平成十八年〕や数へ七十歳の時に刊行した自伝『闘魂風雪七十年』〔錦正社・昭和四十年〕のほか、師の滅後に門下生が刊行した写真集『里見岸雄先生学業六十年史』〔日本国体学会・昭和六十一年〕が存在する。

里見岸雄の学業史は大きく分けて四つ(萌芽期・形成期・展開期・国諫期)に区分できよう。因みに、里見は学者であると同時に社会運動家としても活躍したゝめ、この区分は学業史のみならず運動史における区分としての性格も有する。

第一の萌芽期は、明治四十四(一九一一)年一月から大正九(一九二〇)年七月まで。具体的には、高等小学校卒業目前であつた十四歳のとき、智學の「大逆事件に於ける国民的反省」といふ一文に深い感銘を受けたことから始まる。中学校に通ふことすら許されず、智學が経営する施設で働く日々を送りつゝも、「修養研学切磋琢磨の功を積み、他日必ず海外に雄飛して、わが日本国体の真義と日蓮主義の大思想を、世界人類に宣布せん」〔『国体学創建史(下)34頁』〕といふ大志を抱いて辛苦に耐え、早稲田大学文科予科に進学した。

予科では、小説家としても知られる吉田絃二郎から英文学を、北一輝の弟である北昤吉から哲学概論などを学ぶ。その後、早稲田大学文学部哲学科に進学し、浄土宗の僧侶でもある椎尾弁匡から日本仏典の研究法を、デューイに師事した田中王堂からプラグマティズム哲学などを学ぶ。

かうした自由な知的雰囲気の中で、幼い頃から親しんできた日蓮教学の再検討を試みたのが処女作『日蓮主義の新研究』〔国柱産業株式会社・大正八年〕である。早稲田大学の卒業論文として書かれた同書は、後の方向性を決定づけるものでもあつた。

なほ、在学中に遠縁の里見千代子と婿入りの形で結婚したゝめ、姓が田中から里見となつた。

第二の形成期は、大正九年(一九二〇)年七月から昭和六(一九三一)年十一月まで。早稲田大学を首席で卒業した里見は国柱会の京阪神三局を指導する立場となり、京都に居を移す。さらに、大正十一(一九二二)年五月から大正十三(一九二四)年九月まで英独仏に留学。
“Japanese Civilization, Its Significance and Realization”(日本文明、その意義と実現)〔ケガンポール(Kegan Paul)社・大正十二年〕などの英文著作および“Altjapanicher Idealsmus und Seine Entwicklung”(古代日本の理想主義と其発達)〔自費出版・大正十二年〕などの独文著書を現地で出版した。後者は、地政学の権威として知られるハウスホーファーの関心を引いたらしく、里見に書簡を送つたこともあつたといふ〔『国体学創建史(下)』74頁〕。

帰国後の大正十三年十二月、兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)に《里見日本文化研究所》を創設。また、智學の提唱した「日本国体学」の体系化を試み、『日本国体学概論』〔里見日本文化研究所・大正十五年九月〕を刊行した。

時期的には前後するが、大正十五(一九二六)年二月に、研究所の機関誌『日本文化』を創刊。「世界に於ける最大の奇蹟ともいふべく、世界の精神ともいふべき日本国体の徹底的唱導」、「学術の民衆的解放」、「日本文化の精神を遠く欧米の人々に告げ知らせる事」の三つをモットーとして掲げ、「序文」において「私共の唱導する日本国体論は右に非ず左に非ず、實に坦々たる一実中諦の王道であります。人類の世界に真の幸福と正義とを齎すべき綜合統一的の根本文明であります」と論ずるなど、「日本国体」を普遍的真理と結びつけて論じようとする姿勢が見られる。

昭和二(一九二七)年九月、購入した土地に研究所を新築して《里見日本文化学研究所》と改称した。さらに、『日本文化』(昭和二年十二月号)に「国体科学を提唱す」を発表し、「日本国体学を中枢部と為し、綜合史観と国体史観とを左右の翼と為したる日本神話学、比較国体学、比較国性学、政治学、社会学、法律学、経済学、文明史、日本歴史、宗教哲学、各種政策等を創唱する日本国体主義文化科学」としての「国体科学」の樹立を目指すことを宣言する。

これは、科学を自称しつゝも実際は革命運動という政治的意図に従属するマルクス主義者と、革命運動弾圧といふ政治的意図が先に立ち非科学的な観念論に終始する国体擁護論者とを同時に否定せんとする壮大な試みと云へよう。この試みは難航を極めたが、自らの全存在を賭けた里見の闘ひは『国体に対する疑惑』〔里見日本文化学研究所・昭和三年〕として結実した。

だが、革命運動の炎は衰へることを知らない。大正十五(一九二六)年十二月、日本共産党再建大会が極秘裏に開かれ、「専制的遺制の打破」を含む宣言が採択された。また、昭和二(一九二七)年七月にモスクワで開かれたコミンテルン大会において「君主制の廃止」を明記した「二七年テーゼ」が採択され、翌年二月に行はれた初の普通選挙では合法無産政党から計八名が当選する。

このやうな動きに危機感を覚えた里見らは、「理論の大成などは実践過程を通じて期した方がよい」といふ考へ〔『闘魂風雪七十年』41頁]から、昭和三(一九二八)年十一月、昭和天皇即位の御大礼に合はせて政治運動団体である《国体科学連盟》を結成し、昭和四(一九二九)年一月から機関誌も『国体科学』と改称した。さらに、新しく設立した国体科学社から「国体科学叢書」を刊行し、円融弁証法(後の生命弁証法)など国体科学理論の構築を図る。《国体科学連盟》には国柱会周辺の青年たちが集まり、彼らの活躍もあつて「国体科学」の語は徐々に浸透し始める。

「国体」など資本主義擁護のイデオロギーに過ぎないといふマルクス主義的な固定観念を如何にして打ち破るか。その問題意識に基づいて書かれたのが『天皇とプロレタリア』〔アルス・昭和四年〕である。そこで、里見は天皇を戴く人格的共存共栄原理である「国体」と単なる経済機構に過ぎない「資本主義」とを明確に区別し、前者によつて後者を是正すべきと主張した。同書は百刷を超える大ベストセラーとなり、里見の名を広めることに貢献する。その後、続編にあたる『日本前史を終る』〔アルス・昭和五年〕も増刷を重ねた。

批判の刃は日蓮教学にも向けられた。『日蓮は甦る』〔国体科学社・昭和四年〕や改訂増補版たる『吼えろ日蓮』〔春秋社・昭和六年〕において、社会的現実から遊離した観念論を振り回す日蓮門下を徹底的に批判し、「本尊の実体を宇宙、人類の生命体系と見」るべきであり、「本門戒壇を寺院形態の建造物の思想から解放し、人格的共存共栄の社会組織の建設」を意味すると論じた〔『闘魂風雪七十年』248頁〕。

この二冊は、日蓮門下とりわけ国柱会の内部に大きな波紋を呼んだ。もと/\、国柱会は出家者中心の退嬰的な宗門と一線を画し、日常生活との関はりを重視する在家信者の同盟組織として出発してをり、里見の主張を受け入れる余地はあつた筈だが、結果的に里見は国柱会から去ることになり、従来からの支持者を失ふことになる。

他の部分においても困難が生じつゝあつた。《国体科学連盟》の活動を進めていくうちに、政治運動的側面と学術研究的側面を分離する必要が生じ、昭和六(一九三一)年三月から、従来の『国体科学』に代へて、前者を受け持つ旬刊の『社会新聞』と後者を受け持つ季刊の『里見研究所論叢』を刊行する。けれども、二方面の運動を同時に継続する財政的裏付けを欠いてゐたゝめ、《国体科学連盟》は内部崩壊に至った。同年十月、『社会新聞』は廃刊の已むなきに至り、西宮の研究所を引き払はざるを得なくなる。千代子夫人との夫婦関係も完全に破綻するなど、里見は公私ともども逆境に追ひ込まれた。

 展開と国諫

第三の展開期は、昭和六(一九三一)年十一月から昭和二十(一九四五)年八月まで。西宮を引き払つた里見は、京都に居を移す。その後、篤志家からの資金援助により研究所を新築し、野村田鶴子を後妻に迎へる。

昭和七(一九三二)年二月に新しい機関誌『社会と国体』を創刊。同年六月には《国体主義同盟》を組織するも、学術的な啓蒙活動を主とし、政治運動とは距離を置いた。

学術研究に専念できる環境を整へた里見は、「国体」の中核をなす天皇の意義を説き明かすべく、『天皇の科学的研究』〔先進社・昭和七年三月〕を上梓。続けて、天皇統治のあり方を探る『天皇統治の研究』〔未刊・昭和八年三月〕、「国体」の用例を整理した『「国体」の学語史的管見』〔里見日本文化学研究所・昭和八年七月〕を纏めた。

その後、里見の関心は「国体」の法的表現とも云ふべき憲法へと向かひ、『帝国憲法の国体学的研究』〔里見日本文化学研究所・昭和九年三月〕、『国体法の研究』〔錦正社・昭和十三年三月〕などを世に問ふ。里見の憲法学は、告文・勅語・上諭ならびに第一条から第四条までを「国体」といふ観点から整合的に理解しようとするもので、欧米の理論を単純に当て嵌めようとする他の憲法学とは大きく異なるが、後者により立命館大学から法学博士号を授与されるなど学界でも一定の評価を得た。この博士号授与にあたつては佐々木惣一の推挽が大きい。自分の弟子でもない在野の学者を正当に評価する姿勢は、大川周明への博士号授与に吉野作造が力を尽くしたことを想起させる。

また、昭和十(一九三五)年二月から世間を騒がせた天皇機関説問題についても、里見は独自の見解を示す。問題となつたのは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といふ第一条と「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」といふ第四条との関係であつた。

後者を重視する機関説によれば、国家は一種の法人であり、天皇は法人の定款たる憲法に従つて統治権を行使する最高の「機関」とされる。一方、前者を重視する主権説によれば、国家は一種の有機体であり、有機体の脳髄にあたる天皇は「主権者」とされる。

このやうな両説に対し、第四条に「国ノ元首」とある以上、天皇は「元首」といふ近代国家の統治権を行使する「機関」であることは間違ひないが、近代国家成立以前から続く日本の「国体」によつて定まり、第一条に規定されてゐる天皇の統治実を無視してはならぬと考へる里見は、憲法正解運動を展開した。

風雲告げる時局にあつて、門下生の中には非合法的政治活動を指向する者も居たやうだが、逆に自らの学問的使命を痛感した里見は、昭和十一(一九三六)年の紀元節を期して《国体主義同盟》を《日本国体学会》に改組して学術的啓蒙活動といふ色彩を明確にし、同年五月には機関誌も『国体学雑誌』と改称する。また、同年十一月、東京都北多摩郡武蔵野町(現・武蔵野市)の現在地を購入して研究所を移転した。

昭和十二(一九三七)年七月七日、盧溝橋事件を契機に支那事変が勃発する。里見は、親交の深い石原莞爾から様々な情報を得てゐたゝめか、支那との戦争には批判的であつた。已むを得ず戦ふのであれば、欧米的な権益思想を捨て、「国体」の自覚に基づく道義戦たるべしとして、『支那征討の目的と覚悟』〔日本国体学会・昭和十二年〕、『対支大策・日本よ出直せ』〔里見日本文化学研究所・昭和十二年〕といふ小冊子を執筆して諸方面に頒布する。

支那事変が泥沼化する中で、ナチスの影響を受けた一国一党論が擡頭した。この一国一党論に対し、官僚独裁を招きかねないと危機感を抱いた里見は、『中央公論』(一九三九年一月号)に「一国一党の国体学的批判」を発表する。この論文において、自由主義政党の活動により国家社会の全体性が損なはれつゝある中、一国一党論が登場するのも分からぬではないとしつゝも、人間の利己心が決して断滅できぬ以上、各構成員の利害は多元的であるのだから、「衆智衆議を尽さざる議会は、たとへそれが如何に立派な理想主義的意図の下に成立せしめられようとも、畢竟するに相対的聖善正の独善的肯定であり、多数的勢力是認であり、かくしてそれは政権的に完成させられたところの排他的政治機構であり、従つて自己意志の無批判的絶対化、自己意志の対他的強制にほかならないのである。これはあきらかに非立憲的思想であり、実にむしろドイツやイタリーの政治形態を没批判的に謳歌模倣する、所謂『偽装日本主義』だといはねばならぬ」と批判した。

昭和十六(一九四一)年五月から、里見は立命館大学で憲法の教鞭を執る。大東亜戦争開戦後の昭和十七(一九四二)年四月には、同大学の法文学部に新設された国体学科の主任教授となる。

だが、この頃から福田素顕の率ゐる『皇道日報』など右翼団体による里見攻撃が激しくなつた。福田の告発を受けて、里見は不敬罪および治安維持法違反の疑ひで何度も取り調べを受ける。また、昭和十八(一九四三)年二月五日には、貴族院の〈在満日本人の身分に関する満洲国裁判の効力に関する法律案特別委員会〉で、井田磐楠が里見批判の質問を行つた。告発については不起訴処分となつたが、『国体に対する疑惑』や『天皇とプロレタリア』は発売禁止差押処分となり、『国体法の研究』も二百数十箇所におよぶ改訂・削除を余儀なくされる。

しかし、このやうな弾圧に屈することなく、里見は学業の集大成として全十三巻に及ぶ「日本国体学」の執筆を志し、戦火の中で書き継いだ。

第四の国諫期は、昭和二十(一九四五)年八月から昭和四十九(一九七四)年四月まで。里見は、敗戦を疎開先の秋田県北秋田郡扇田町(現・大館市)で迎へた。眠れぬままに翌朝を迎へた里見は、日本国体学会総裁としての「非常訓示」を書き上げ、「落胆する勿れ、発奮せよ。自棄する勿れ、誓願に生くべし。わが大日本帝国は二千六百五年にして真の国体顕揚の大事にいそしまん。熱涙の中に国体を仰視せよ。焼土の中より正義護国の大道念を燃え上がらせよ」と、門下を鼓舞する。さらに、八月十九日には、近在の住民を集めて講演し、「今、私達は皆打ちひしがれた気持ちであるが、然し、日本の復興は今後十年だと私は確信する。だからいかなる敗戦占領の屈辱にも堪へて、この十年を生きぬき、再び隆々たる国運を迎へようではないか」と訴へかけた〔『闘魂風雪七十年』530頁〕。

同年十月に帰京した後も、『日本国体学』の完成に向けて筆を走らせる傍ら、GHQの弾圧――昭和二十二(一九四七)年六月に公職追放処分を受ける――と闘ひながら執筆・講演活動を展開。また、独自の規定を盛り込んだ「大日本帝国憲法改正案私擬」〔昭和二十一(一九四六)年一月〕を発表したほか、戦中に刊行の途絶した『国体学雑誌』に代はる新しい機関誌『国体戦線』を昭和二十二(一九四七)年二月に創刊する。

昭和二十六(一九五一)年六月に追放処分解除となつた里見は、機関誌を『国体戦線』から『国体文化』に改称した。けれども、その筆鋒・舌鋒は鈍ることなく、蜷川新の新著『天皇』に対する駁撃を手始めに、戦後の反「国体」的風潮と徹底的に闘つた。中でも特筆すべきは、三笠宮崇仁親王殿下が紀元節復活に反対された際、『国体文化』(昭和三十四年五月号)を「三笠宮諫暁特輯号」とし、巻頭論文として「三笠宮に皇籍離脱を諫告す」を執筆したことである。

また、昭和三十一年十一月に、里見は《宗教法人立正教団》を創立し、機関誌『立正文化』を創刊した(現在は休刊)。智學の結成した国柱会は現在も存続してゐるため、内部対立と見る向きもあつたが、「思想(化法)や運動方法(化儀)の正当な分張なら、いくら新しい団体が出来ても、何等苦にするところはない」と里見は述べてゐる〔『闘魂風雪七十年』597頁〕。

そして、学業の集大成として、『日蓮・その人と思想』(昭和三十五年)、『万世一系の天皇』(昭和三十六年)、『日本国の憲法』(昭和三十七年)の三部作を錦正社から出版した。その後も、昭和四十九(一九七四)年四月に滅するまで、講演や執筆を継続した。

 をはりに

以上、里見岸雄の学業史を振り返つてきた。その範囲は多岐にわたるが、集大成として執筆した三部作で取り上げた日蓮論・天皇論・憲法論を学業の中心と見ることに問題はあるまい。そのうち、後の二つは国体論における個別問題と見ることができる。

なぜ、国体論と日蓮論とが結びつくのか。現に、里見の国体論には強い関心を持つてゐるが、その日蓮論には全く関心を持たぬといふ者は少なくない。その逆に、里見の日蓮論は理解できるが、その国体論にはついていけないといふ者もあるかもしれぬ。

私は、「生命」といふ概念をキーワードに両者を繋ぐことができると考へてゐる。紙幅の関係で本稿では触れる余地はないが、その一端は先に触れた「里見国体学における『生命』」の中で論じたので御一読頂きたい。

『国体文化』(平成26年4月号)所収

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