里見岸雄先生とは


幼少時

里見岸雄先生は明治30(1898)年、国柱会の創始者である田中智学先生の三男として、東京本所横網町に生れた。
3歳の春、当時智学先生が学業の本拠とされていた鎌倉要山(かなめやま)の師子王文庫(香風園)に母方の祖母、小川輝子と曾祖母、小川百二の膝下に育てられた。香風園の名は、法華経化城喩品に「香風時に来って、萎まる華を吹いて、更に新しき者を雨す」とあるによったもの。現在、この地はマンションと旅館になっているが、田中智学先生撰筆の「香風園記」碑と里見先生が建てられた「師子王文庫趾」碑が今も残っている。
明治36年、里見先生はこの地から鎌倉師範学校付属小学校に通い、12歳の時、藤沢の鵠沼小学校長、小川礫三宅に預けられ、鵠沼小学校に転校し、明治44年同校を卒業した。

鵠沼小学校の卒業式(後列中央が里見先生)

鵠沼小学校の卒業式(後列中央が里見先生)

思想の芽吹き

里見先生は、明治43年14歳の時、田中智学先生の『日蓮聖人の教義』と、大隈重信伯爵の『国民読本』を読み、思想的芽生えの土壌を与えられ、さらに明治44年、大逆事件の判決に縁して、田中智学先生の「大逆事件に於ける国民的反省」を読み、深い感動を覚え国体的関心をたかめられた。

最勝閣の一年

明治44年、15歳の時に里見先生は、高等小学校卒業と同時に中学へ入学を希望されたが、智学先生はこれを許さず、静岡県三保にあった最勝閣で1年間の養生と厳しい修行に従事された。
明治44年に夏に開かれた夏季講習会において、田中智学先生が講ぜられた「本門戒壇論」「御製講義(日本国体学)」は先生の脳裏に深く刻み込まれ、先生後年の中心思想となった。

立志誓願

明治45(1912)年、16歳の時、里見先生は東京中野の日本済美中学校に入学を許されたが、在学中に担任の奥田教師と宗教問題で衝突。1週間の停学処分を課せられた。
しかし、智学先生は激怒、一方的に退学を命じ、鎌倉要山香風園で、風呂たき等の雑役のほか、読書厳禁の懲罰を課した。先生は逼迫窮命の逆境に立つこととなった。失意のどん底にあった先生は、一夜静かに日蓮聖人遺文「諫暁八幡鈔」を読み大きな感動に打たれた。
「仏法必ず東土の日本より出づべき也」という一大任務を自分の手で果たしてみたい、その目標を10年と定め立志された。先生は日蓮聖人の言葉を通して、その気魂と確信に触れ、他日、必ず海外に雄飛して、日本国体の真義と日蓮主義の大思想を、世界人類に宣布しようと決意されたのである。

稲門時代

立志以来、里見先生は大いなる希望に燃え、不撓不屈の精神をもって苦行に挺身。香風園で1カ年間、様々な事を体験するなかに、智学先生の命により香風園を去って上京。当時、国柱会の書籍販売や印刷物を取り扱う祐善堂に勤めることになり、次兄田中沢二氏(後の立憲養正会会長)と生活を共にすることになった。
大正3年1月、ここから正則英語学校に通学。さらに立志の実現を期すため早稲田中学講義録をもとに、一日おきに徹夜の猛勉強を始め、大正5年4月、中学卒業試験に合格。
ついで予科編入試験に合格、大正5年9月、早大予科に入学、大正6年9月、哲学科に進んだ。
大正8年12月、卒業論文として「日蓮主義の新研究」を菊版700頁の単行著作として提出した。
単行本としての卒論は、他に例がなく、大学当局はもとより当時各新聞、雑誌等は高く評価した。
先生はこの書で「日蓮主義の諸問題」と題し、初めて「日本国体論」を取り扱われた。この卒論によって先生は、早大で首席卒業となり、全学生の総代として大隈重信総長の面前で謝辞を述べた。

京阪神に大活動

大正9年7月、24歳で早稲田大学を首席卒業された里見先生は、要山で立志以来の宿望を智学先生に打ち明けられた。智学先生は、その志を壮とされて前途を祝されたが「渡欧の費用は自力で工面せよ」と激励された。先生は、即座に自力で断行の誓いを立て、その方策を練った。
大正10年1月から翌年2月までの1年2カ月の間、先生は京阪神の国柱会支局を中心に、大小121回にわたる講演のほか、「天業民報」その他の雑誌の寄稿等、まさに八面六臂の活動を展開、国柱会の京阪神三局の教勢はとみに増大し、ことに青壮年の意気は、いやが上にも高まるばかりであった。
青壮年の有志は、先生渡欧後も教勢を落とさぬよう、さらに一層の発展を期すため活動組織の結成を先生にはかった。先生は、もっぱら街頭に立って国体擁護、国体宣揚の弁論戦を展開することを願業とする青年団の結成を提言され、熱烈な共鳴を受けたので、日本書紀の第3巻神武紀にある「恢弘天業」によって「天業青年団」と命名された。

天業青年団で街頭演説する里見先生

天業青年団で街頭演説する里見先生

日蓮主義・国体主義の海外宣伝

里見先生は、1年間の奮闘により、当時の金で1,500円程度の渡航費を得た。
そして、大正11年3月「天業民報」に「外遊に際して」と題し、決別の短文を書き、更に4月23日、明治大学講堂で開かれた国柱会の講演会に臨み「外遊に際して」の題下に、その覚悟を披歴された。この時、智学先生は、外遊送別式を挙行し「たとえ万一予死すとも、学成らずして帰国するを許さず、その際は、彼地において英語なりドイツ語なりで追弔講演をせよ」と訓示を与えられた。
大正11年5月3日、里見先生は横浜港を出港し、57日を費やし、6月28日、ロンドンに到着された。

渡英後、先生はロンドン郊外ハロウ・オン・ザ・ヒルに居住。1年有余をここに送られたが、少年時代からの請願を実現すべく、先ず英文で「日本文明の意義と実現」を、有名な書肆(しょし)ケガンポール社から公刊。さらに大正12年春、入独し、当時駐在武官として在独の、石原莞爾の協力を得て、独文「古代日本の理想主義とその発達」を公刊し、世界各国の皇帝、大統領、政治家、知識人、宗教家等に寄贈した。世界的に日蓮主義、国体主義を宣揚するという未曽有の快挙を成し遂げた。

欧州より帰りて日本の将来を思う

大正13年10月、帰朝された先生は、帝国ホテルの帰朝歓迎会に臨み、次いで11月、鶯谷国柱会館で「欧州より帰りて日本の将来を思ふ」の第下に帰朝講演を行い、多大な感銘を与えた。
その中で
「そこでもし、今後仮に、日米戦争が起こったとして、仮に日本が負けたとしたならば、ただこれからは大和魂があるとか、あるいは単に撃剣がうまいからといって勝てるものではない。国民のすべての精神が緊張して、この国体を護るためには、あらゆる艱難辛苦を耐え忍んでも、この我々の理想の敵であり、信念の敵であるものを、葬らねばやまぬというのでかかればとにかく、今の様に軍艦や鉄砲などに依頼しておくだけならば、日本は必ず負けてしまう。軍艦の数の少ない、又、経済状態の更に悪い日本は、じきに負けてしまう。
仮にもし、日本人が混沌として国体の正義に目覚めず、したがって国民精神また振るわずして負けたならどうか、アメリカの目の上のタン瘤は日本である。アメリカの根本の国策とし、国の生命とするところはデモクラシーである。そこで、天皇中心思想である日本を、仮に征服したならば、アメリカはあらゆる力をもって、日本の国体の変更をば強要するに違いない。
これは、あり得る問題である。また、アメリカの方とすれば、そうならなければアメリカとして嘘だ」
と、大正13年に、すでに今日の姿を推測する、驚くべき洞察を示している。

「欧州より帰りて日本の将来を思ふ」の帰朝講演

「欧州より帰りて日本の将来を思ふ」の帰朝講演

里見先生は、渡航前から、自分の研究所設立を念願しており、その資金調達のため行商宣伝を行うことを決意された。智学先生は、その壮挙を讃え「里見日本文化研究所設立浄資録」を作り、勧奨の辞を記されると共に、はじめとして金200円と初筆された。先生は、大正13年11月26日、藤沢を皮切りに全国45カ所を巡講し、約2万円の設立準備金を達成し、12月、兵庫県六堪寺に「里見日本文化研究所」の仮看板を掲げられた。

里見日本文化研究所の創立

大正14年4月28日、日蓮聖人開宗の聖日にちなみ、里見日本文化研究所の開所式を挙行。式典は先生の宣言朗読と日本文、英文、独文による創立宣言文を内外の代表機関に発送することを中心とした。
研究所の中心は、国体研究、日蓮研究におかれ、大正15年2月機関誌「日本文化」を創刊した。
六堪寺時代の学的研究の成果は「日本国体学概論」に代表される。この書は、当時の各種国体論に比し、はるかに組織的、体系的国体論として歴史的意義を有するものであった。

里見研究所の新築

昭和2年、兵庫県西宮宮西町に新研究所が落成。同年9月24に落成式を盛大に挙行された。四階建て、80坪の建物は、当時西宮における一偉観であった。当日、田中智学先生は、長男田中芳谷氏を派遣して「讃奘の辞」を代読せしめ、祝賀と訓示を与えられた。
以後、里見先生は、ここを本拠として熾烈な活動を展開された。

昭和大詔の根本義解

大正15年12月25日、大正天皇崩御、皇太子裕仁親王殿下が践祚、昭和と改元された。
登退の悲しみに沈む国民に対し、12月28日、新帝践祚の大詔が渙発された。里見先生は、この大詔を一読、直ちに日本の進路を明示したものと深く感動、「昭和大詔の根本義解」を発表するとともに、講演、執筆、放送を通じて日本人の自覚を促された。

国体科学の提唱

西宮時代における里見先生の、学問研究の最大の意義は、国体の科学的研究の必要を提唱したことである。
昭和2年12月の「日本文化」に「国体科学を提唱す」の一文を発表、国体科学の名を興して以来、あらゆる困難と戦い、次々と研究成果を公表された。昭和3年4月に刊行された『国体に対する疑惑』は、陸軍士官学校や官私立有名大学の学生たちの抱く、国体に対する疑惑に対し、科学的解明を与えたもので一大センセーションを巻き起こした。この書は、先生の国体学建設史上、重要なる最初の転換期的著作であった。

大正から昭和へ

大正から昭和にかけて、マルクス主義が猖獗を極めると共に、従来の心情的国体論は無力化され、知識階級はもとより、ことに青年層の支持を失いかけていた。このような時だけに、先生の理性的な国体科学の活動は、全国民各層の注目するところとなった。先生は過激思想の撲滅と、国体の真意義を宣揚するため、国内はもちろん、鮮満支にも足を延ばし、寧日なき活動を展開された。

『天皇とプロレタリア』と大講演

国体論といえば、実践的にも理論的にも資本主義擁護の論であり、資本主義を否定するものは反国体的であると断定し、共産主義者も資本主義と国体とを区別する聡明さを欠いていた。里見先生は、このような右翼、左翼の誤った考え方を撃ち、真理としての国体を宣揚する立場から、昭和4年11月アルス社から『天皇とプロレタリア』を公刊。100版突破の大ベストセラーとなり、文字通り、洛陽の紙価を高からしめた。

国体科学連盟と国体科学叢書

昭和3年、里見先生は地方巡講を行いつつ、怒涛のごとく押し寄せる共産主義勢力の脅威に対抗するには、国体科学の旗印のもとに団結し、街頭に進出する以外なし、と決意し、国体科学連盟を創立された。そして機関誌「日本文化」を「国体科学」と改題。運動の進展にともなって「社会新聞」を発行した。
国体科学連盟を通じて、大衆の中に橋頭保をつくりつつ、一方では国体問題の科学的解明に従事。その成果を「国体科学叢書」として刊行された。先生は第2巻『国体認識学』において、初めて天皇の統治における権と実との概念分析を明らかにされた。
昭和3年11月、新帝即位大典奉祝に合わせ国体科学連盟は円山公園をはじめ京都市内数か所で三日間にわたり、御大典奉祝運動の一環として果敢な言論戦を展開した。左右両翼の誤った国体論に、痛烈な批判を展開する連盟の影響力は絶大で、会勢はとみに拡大された。
国体科学の提唱後、里見先生は非常なる覚悟のもとに、日蓮主義及び宗教一般に対しても、鋭い批判を投げかけた。昭和4年11月、『日蓮は甦る』を刊行。この書は昭和6年春『吼えろ日蓮』と改題して春秋社から刊行されたが、両書に示した革命的意見の中心は、本尊の実体を、一大生命体系とした点と、本門戒壇を寺院形態の建物ではなく、人格的共存共栄の社会組織の建設であるとした2点であった。

教育勅語渙発40周年奉祝

昭和5年7月、先生は教育勅語渙発40周年を奉祝し、記念のため『思想的嵐を突破して=教育勅語徹底解説』をアルス社から刊行。国民教育の面に真実の国体思想樹立を期して、教育勅語に対する過去のイデオロギーを排して、新しい理解と把握の仕方を示したものであり、勅語解釈の先駆的役割を果たした。

軍人勅諭を通して軍隊へ

日本軍隊が“資本家の軍隊”であってはならない、という悲願に燃えた先生は、「軍人勅諭」をただ軍隊内の解釈にまかせておいてはならない、これを国体科学の立場で、活釈することは、時勢の急務と痛感され、昭和4年11月『軍人勅諭徹底解説』を刊行、多大な反響を呼んだ。この他、先生は同様の趣旨をもって3種類の軍人勅諭の解説書を刊行された。

京都時代

昭和6年11月、里見先生は活動の本拠を京都に移し、活動の主たる任務を、国体の科学的研究と、天皇論の理論的構成におくことを目指された。さらに研究所開設以来、先生の活動に期待する全国の同志は、結社の創設を希望。昭和7年2月、機関誌「社会と国体」を刊行する機会をとらえ、先生に結合を誓う国体主義同盟が誕生した。

国体学史上における貢献

京都に新研究所を移された里見先生は、国体学史上幾多の画期的貢献となる著作を、次々と公刊された。『天皇の科学的研究』『国体の学語史的管見』『天皇統治の研究』等は、国体、天皇論の学術的研究として未だかつてない歴史的意義を帯びたものであった。

国体憲法学の創唱

里見先生は、国体、天皇の研究課程の中で、しだいに憲法研究に進んでいかれた。無師独学をもって憲法上の処女作『帝国憲法の国体学的研究』を刊行。さらに『皇室典範の国体学的研究』を著わし、これを再校訂して『国体憲法学』と題し、昭和10年」、二松堂から出版、ここに日本憲法学史上初めて、真の日本憲法論を提示し≪国体憲法学≫の名を興された。明治以来、天皇、国体に関し、混沌としていた憲法学界に、未曽有の刺激と生気を与えることとなった。

天皇機関説問題と憲法正解運動

昭和10年、天下を震撼させた天皇機関説事件が起った。里見先生は、国体学的見地から、右翼の美濃部博士攻撃を鋭く批判。しかし、同時に、日本憲法学界の継受法学の矛盾を指摘して『天皇機関説の検討』を執筆、一万部を各方面に寄贈した。
さらに先生は、国体科学、国体憲法学の立場から、国民啓蒙の必要を痛感し「機関説撃つべくんば主体説共に撃つべし」の題下に、独自の国体明徴、憲法正解運動を全国に展開した。

内務省との一戦

昭和9年11月頃、研究所の塾生が先生に反旗を翻し、事実無根の情報を流し、京都三新聞(日出新聞、京都新聞、京華日報)は、これをもとに、先生の人身攻撃記事を書いた。里見先生はこれに対し、記事と同数の文字をもって理路整然と反論、ついに三紙を陳謝せしめた。
また、内務省は昭和11年1月の「社会と国体」に昭和天皇と書いたことで、始末書を提出させようとしたが、先生はこれを断固拒否し、年号は天子の別号なることを徹底的に論明せられた。さらに、溝淵大審院検事、桶田豊太郎九大教授、吉田一枝関大教授等と、憲法上の論争を戦わすなど、先生の言論活動は熾烈を極めた。

日本国体学会の創立

昭和11年2月11日、里見先生の学問的使命の遂行を徹底化するため、国体主義同盟を改組し、日本国体学会を創立。創立奏上式を伊勢大廟前で挙行し、機関誌を「国体学雑誌」と改題。新しい組織の再出発のもと先生の憲法正解全国巡講と共に、日本国体学会の会勢は拡大した。

第5次鮮満巡講

大正15年、里見先生は初めて鮮満支に渡り、国体正義を高揚せられたが、先生の鮮満巡講は昭和14年の最終巡講までに8回を数えた。一回50~60日を要するという長旅の中に、国体正義を獅子吼された。

東都移転記念の日本国体学術大講演

昭和12年4月、東京進出を記念し「日本国体学会創立一周年記念・日本国体学術大講演会」を明治大学講堂で開催。先生は、智学先生、山川智応博士に協力を要請され、三人が揃って講演するという、智学門下に於ける空前絶後の大講演会であった。智学先生は、これが最後の公開講演となる。

第6・7次鮮満巡講

里見先生が行われた鮮満巡講は、国体宣揚の事業の中でも、特筆すべきものであって、日本国体は、異民族の文化を排除したり、圧迫したりするものではなく、世界一家、共存共栄の道義的理念であることを力説され、国民の国体に対する文化的自覚を促進する上で、多大な貢献を果たした。

支那事変の勃発と覚正運動

先生は昭和12年7月、支那事変が起ると直ちに、天皇国日本の使命、国体の本義から「支那征討の目的と覚悟」「対支大策・日本よ出直せ」を出版し、権益思想を痛打し、あくまでも崇高な道義戦でなければならないことを強調して、日本内省の大道を示された。

一国一党論批判と大政翼賛会に挑む

支那事変の拡大長期化に伴い、その打開策として挙国一体の国内体制を現出するため一国一党論が台頭した。里見先生は、この現象に対し、帝国憲法の立憲精神を破壊するものとして、徹底的に批判され「一国一党論の国体学的批判」を執筆。これに共鳴した朝日新聞論説委員の佐々弘雄氏の斡旋で、昭和14年1月の「中央公論」に発表された。
また同年6月の「改造」にも同趣旨の「輔弼と協賛の本質」を発表。天下の識者に訴えた。やがて近衛首相は、ブレーンの佐々氏の進言を入れ「一国一党は国体に非ず」という声明を出すようになった。

里見憲法学と『国体法乃研究』

里見先生が、東都移転後に公刊された数々の著作のうち、特筆大書すべきは『国体法乃研究』である。この書は、菊判1218頁という大著で、主として帝国憲法第1条から第4条までの精緻を極めた独創的研究であった。佐々木惣一博士をはじめ、学界から絶賛の声が起り、昭和16年、先生はこの書によって、立命館大学から、法学博士の学位を授与された。

王道・皇道の論争と八紘一宇

満洲国建国と共に、王道・皇道の比較論が盛んとなり、皇道を優、王道を劣とする風潮が高まった。先生は、国体の本義からみて、その不可なることを縦横に論明、『日本国体と王道』を刊行された。
一方「八紘一宇」の語を「八紘為宇」と言いかえる者や、かつ、この語を侵略的世界征服主義の標語であるかのごとく用いる気風を慨嘆し、大衆啓蒙の必要を痛感され、昭和15年、『八紘一宇』『少年読本・八紘一宇』を錦正社から公刊。
また、独尊排他的国体思想の横行に対し、中世の抱擁的、人類的国体思想を闡明した『中世の国体思想』を著された。

佐藤生活会館に国体学講座

昭和14年4~7月、佐藤生活会館において知識人を主対象とした有料の「日本国体学講座」を開講。翌15年も数次にわたって開講され、また地方においても「日本国体学分講座」として開催された。
このアイデアは効を奏し、常に満員の盛況であった。

皇民義塾の計画

里見先生は、次代を担う青少年の国体的教育の必要を痛感され、昭和14年10月の「国体学雑誌」の全頁を投じて「皇民学校火急建設の提唱」を発表し、詳細にその構想を述べ、準備委員会を設けて実行に着手された。三島通陽子爵など有力者を始め、賛同するものが続出し、資金もある程度集まったので先ず、敷地を研究所隣接地に約3,000坪を購入、いよいよ校舎の建設という段階になって、その資金を集めようとしたところ大東亜戦争に突入、物価の高騰などにより、残念ながら実現に至らなかった。

田中智学先生の太寂

先生の厳父であり、里見日本文化学研究所の大恩師であり、日本国体学会の顧問であった、一世の偉人、田中智学先生は、昭和14年11月17日、護法護国の79年の聖生涯を閉じられた。正葬儀は、昭和15年3月17日、朝野の名士、門下、会員等数千名参列のもとに、一之江申孝園で厳粛盛大に執行された。
先生はその4月、『田中智学の国体開顕』を著わし、追孝追善の一端に擬せられた。この書は、智学先生伝記の最初の刊行であった。

田中智学先生一周忌追善と皇紀2600年

昭和15年は、輝く皇紀2600年を迎えた。
先生は奉祝行事を11月11日と定め、当日「国体法の研究」「八紘一宇」「神武天皇と八紘一宇」を橿原神宮に奉納。大陵に詣し、「日本国体学大成願文」を奏上し、終わって同志を数隊に分け街頭演説を奉行する一方「神武天皇と八紘一宇」を5万部施本した。

立命館大学に国体学科生まれる

昭和16年5月、先生は『国体法の研究』を読んで感銘した、立命館大学の中川小十郎総長の懇請を受けて、立命館大学に憲法講座を担任された。中川総長は翌年、先生に国体学科新設を要望、主任教授を依頼した。
しかし、文部省は、国体が学問になるか否か疑問だとして、なかなか許可しなかった。そこで先生は、文部省担当課長、局長に面談し、講義内容の「国体学式目要綱試案」を提示説得し、一挙に解決せしめられた。
かくして、日本の大学に初めて国体学科という独立した学科が誕生した。

学難重畳

先生の学業史の中で、学難といわれる事件が多々ある。
国体科学に進まれた頃の、日蓮関係者との摩擦。西宮における幹部退去事件、京都における三新聞の虚報事件、京都時代の官僚の弾圧、昭和18年を頂点とする全右翼の先生排撃事件、東條内閣の弾圧、マッカーサーによる追放事件等々、大小の学難が重畳した。
まさに「魔、競はずんば、正法と知るべからず」の教訓を身を以って読まれた学業史である。

樺太巡講

昭和16年、大東亜戦突入の前夜、8月から9月にかけて先生は、樺太庁の招きにより、全島を巡講され、国体主義を高揚された。

日本国体学起稿式

皇紀2600年祝典の折、橿原太陵前に請願した「日本国体学」の寄稿式を、昭和18年11月11日に挙行した。
当日未明、先生は、全国から参集した同志とともに、宿舎二見館を出発。内外宮に参拝の後、畝傍に至り、太陵に詣し、謹んで陵前に「日本国体学起稿之奏疏」を奏上された。次いで、橿原神宮を拝し、伏見桃山に直行、明治天皇陵前で教育勅語を奉誦、昭憲皇太后陵を拝した後、宇治川畔、菊屋で厳粛なる寄稿執筆式をとり行われた。
この日は、奇しくも田中智学先生が、初めて建国の三綱を開顕し、八紘一宇の天業を闡明された日であった。

空襲下、決死の執筆

日本国体学起稿式の後、19年1月8日から、いよいよ執筆が開始された。
しかし、戦雲急を告げ、11月には、本格的に日本空襲が始まった。
空襲警報が発令されると先生は、書きかけの原稿用紙に発令日時を記入、書庫を振り返りつつ避難し、解除になると直ちに戻り、解除の時刻を記入して執筆にかかられた。20年2月16、17日の空襲は激烈を極めたが、それでも先生は防空壕の中で、決死の覚悟で執筆を続けられたのである。

敗戦と総裁非常訓辞

疎開先の、秋田県扇田町において、玉音放送を拝した翌日、即ち、昭和20年8月16日、里見先生は直ちに「総裁非常訓辞」を執筆。印刷に付し全国の同志に発送。

「わが大日本帝国は2600年にして真の国体顕現の歴史に入れり、転禍為福の妙機蓋し此時に在り……熱涙の中に国体を凝視せよ。焼土の中より正義護国の大道念を燃えあがらせよ」

と門下の覚悟を促した。
先生は敗戦後4日目の8月18日、扇田における例月国体学講座を救国再建の第一声として「熱涙の中に国体の大義を凝視せよ」の題下に講演を計画したが、警察当局の指示で止むなく中止となり、改めて8月25日の夜、非公開で開催。これを伝え聞いた町民は、立錐の余地なきほど参集。先生は、憂国の熱弁によって、失意のどん底にあった町民に光明と勇気を与えられた。

機関誌の復興

物心共に興廃し、荒れ狂う赤風と愚民主主義におおわれていた日本を、いかに興すべきか、先生は夢寐の間にも念頭を去ることがなかった。
皇民中学校建設のために購入した土地を、維持するため自ら開墾鍬をとって立ちあがり、一方、機関誌復興に向けて努力の傍ら、他誌を通じて救国の筆を振われ、「天皇と共産党」「科学的国体論」「唯物弁証法と生命弁証法」の単行著作を公刊して赤嵐に抗し、不屈の文筆活動を続けられた。
そして、昭和22年3月、8頁立ての「国体戦線」を復刊し、言々句々護国の叫びと、日本の良心と勇気の結晶を示された。

マッカーサーによる発行禁止の二書

先生は戦後直ちに、日本を誤った過去の天皇論、国体論を痛烈に批判し、日本国民の反省と今後の心の持ち方を論じ、かつ、アメリカ人の日本国体、天皇に対する誤った判断、先入見を根本的に是正しようという目的で「天皇偽制の敗退」(佐竹書房)、「日本の再建と反省」(創造社)の二著を著されたが、マッカーサー総司令部によって発行不許可となった。

「日本国体学」大成奉告式

昭和18年11月11日、起稿式を挙げて以来、足掛け6年、言語に絶する苦難と戦い、ついに昭和23年3月17日、先生は、大著「日本国体学」全13巻、総紙数35,000枚を脱稿された。先生は皇恩に拝謝し、さらに誓を新たにすべく、昭和23年4月3日の神武天皇祭当日、全国同志の参集を得て、神武天皇陵前で、日本国体学大成奉告式を挙行された。先生は、3,600字よりなる奏疏を感涙にむせびつつ奏上された。

全国縦貫波状巡講

敗戦後の国状は、憂いても憂いきれないものがあり、先生は救国再建と会勢の拡大をはかるべく、昭和23年8月、西部巡講を皮切りに、年々歳々、継続的、波状的な全国巡講を開始された。
救国悲願に燃えたこの大巡講は幾十回に及び、一回70日に及ぶこともあり、最も多き講演回数は年100回を数えたこともある。

機関誌を「国体文化」と改題

戦後民主主義の悪弊を匡し、警世の文字として救国の四部作「天皇?」「日本の民主主義」「日教組と革命」「日本国憲法批判」を公刊された。この四書は日蓮聖人が、時弊を痛打して叫ばれた四箇格言(念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊)の現代版というべきものであった。

蜷川新著『天皇』駁撃大講演

敗戦民主主義に便乗し、全編不敬の言と天皇無用論で充満した法学博士蜷川新の『天皇』なる著作が刊行された。
里見先生は奮然起って「国体文化」「日本及び日本人」「信人」に批判論文を掲げ、学術的、思想的に完膚なきまで筆誅を加えられた。反省なき博士を、さらに糾弾すべく昭和27年11月18日、東京呉服橋の日本相互ホールで「蜷川新“天皇”駁撃大講演会」を開催、縦横無尽に批判した。

憲法改正運動と「大日本国憲法案」

追放解除の身となった先生は、その第一声を放つべく昭和26年9月23日、中央大学講堂で「独立日本の決意」と題し講演された。何等の拘束もなくなり、大上段から国体的見解を表明、舌端焔を吐く慨があった。
さらに、当面の急務たる問題を機関誌で次々と論評。昭和27年2月「日本国憲法改正案」、3月「三笠宮に捧げる公開状」、4月「天皇の退位と基本的人権」、5月「マッカーサーの功罪を論ず」等々で各界を啓発。中でも「日本国憲法改正論」は、1万部を国会議員、政府要員、各方面知名人に寄贈したが、世の改正論のトップを切ったものである。
その後先生は、憲法改正、皇室典範改正の悲願に燃えた運動を展開された。

三笠宮諫暁

三笠宮殿下の言動が、戦後の日本の社会を悩ませた。小は一身上の不平から、大は天皇問題、紀元節抹殺論に至るまで、社会に与える悪影響、逸すべからざるものがあった。
しかし、皇族という身分に対しての遠慮からか、これに対する反論はなかなか現れなかった。
先生は情理をつくして昭和27年3月号「国体文化」の「三笠宮に捧げる公開状」を始め、7回にわたって諫暁を続けられ宮の覚正を促された。

里見先生の還暦

昭和23年3月17日、還暦を迎えられた里見先生は、関係者を招待され自祝の小宴を開催され、詩集『蛍火猶存』を刊行配布された。また、11月24日には、藤沢市の小川家墓地で、泰堂80年、詩仏忌120年の墓前祭を行われた。

田中智学先生、生誕百年祭

昭和35年11月18日、田中智学先生生誕百年祭記念行事が新宿の伊勢丹ホールで開催された。
一つは田中智学先生関係文物展示会、二つには田中智学先生を偲ぶ会であった。
里見先生は記念出版として『日蓮その人と思想』『支那の王道論』、英文『アメリカは勝者か』、『紀元節の意義』『日蓮聖人遺文抄』、「国体文化」「立正文化」の田中智学先生生誕100年祭記念特集号を刊行されたほか、能楽「君が代」を靖国神社に奉納演奏され、これらを十大紀念事業とされた。

横田喜三郎・宮沢俊義両教授に対し学的対決を要望

戦後民主主義に迎合し、真理を歪曲してはばからぬ知識人と称される人々の、世に与える害毒は大きい。宮沢俊義氏は、東大の憲法学の最高峰として、また、横田喜三郎氏は最高裁判所長官として、位人身を極めた。
この二人に対し先生は『日本国の憲法』を贈呈し、批判を乞うたが、梨のつぶてであった。
先生は「国体文化」に学者の礼節と義務とを論ずる文篇を書き、二度にわたり回答を求めたが、黙秘権を行使するのみであった。そこで、昭和38年10月12日、第三衆議院議員会館において「横田、宮沢両氏の天皇論を批判す」という題下に、特別学術講演会を開き、完膚なきまでに批判しつくされた。

『闘魂風説七十年』と『天皇法の研究』

昭和40年11月、先生は16歳立志以来、戦前、戦中、戦後を一貫して国体の学術体系樹立とその宣揚のため、あらゆる苦難と戦い抜いた70年の歴史を自伝『闘魂風説七十年』として刊行し、一代の活動に一応の区切りをつけられた。その後、「国体法の研究」に日本国憲法の天皇法を加え『天皇法の研究』として発刊された。

国体学講習会

国民教育の急務を痛感されて昭和3年以来、定期的に開講してきた国体科学講習会は、昭和36年の第40回まで開催されたが、昭和36年7月末から8月4日にかけて毎日2時間、先生の「天皇と国民」と題する講義が行われ幕を閉じた。
しかし、昭和32年からは日蓮主義講習会、青少年夏期学校なども開かれ、多くの人材が輩出していった。現在は中断中であるが、将来的には再開を目指したい。

悲しみの恩師葬

昭和49年4月、先生は里見日本文化学研究所創立50周年記念文篇として「聖徳太子」を脱稿。
4月8日、聖徳太子廟に報恩謝徳の参拝をすまされ、途中、熱海に静養の後、11日帰宅されたが、にわかに御発病、御容態はかばかしからず、4月17日夜半に急変を告げ、日赤病院に入院、集中治療室で加療、ひたすら御本復を祈念する一同の願いも空しく、4月18日午前6時10分、安祥として太寂に帰せられた。
御年78歳。
5月19、20日近親、門下同志参集して悲しみの恩師葬儀を虔修。先生は、ここに78年護法護国の聖生涯を閉じ、大孝園大霊廟に永遠に鎮まらせられた。

願業を継承して新しき出発

昭和50年4月、里見先生の一周忌を期して、先生が里見研究所50周年記念として著された『聖徳太子』『順逆の群像』を公刊。報恩謝徳の一端に擬するとともに、門下の異体同心、続種護法の誓いを新たにした。
そして今日まで、不屈の勇気をもって前進することが恩師の海岳の洪恩に報ゆる道と、門下の使命と責任を痛感しつつ、活動を続けている。

参照『里見岸雄先生学業六十年史』『闘魂風雪七十年』

【里見日本文化学研究所とは】

〔滅後四十年〕里見岸雄博士の学業も併せてご覧下さい。