月刊「国体文化」の沿革

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『日本文化』
〔大正15年2月号~昭和3年12月号〕
▶大正15年2月に創刊された「日本文化」。雑誌の三大使命として「国体思想徹底普及」「学術の民衆的解放」「日本文化海外宣伝」を掲げ、日蓮聖人の宗教と世界の諸宗教との比較研究や独・英文欄を設けるなど世界的視野に立つ雑誌を目指した。
マルクス主義的社会科学を克服する必要性を感じた里見岸雄は、昭和2年12月に「国体科学を提唱す」を機関誌上に発表。昭和3年には、『国体に対する疑惑』を上梓し、危機に無関心な従来の国体論を警鐘を鳴らす。

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『国体科学』
〔昭和4年1月号~昭和6年2月号〕
▶『国体に対する疑惑』は過激な目次による内務省通達を逆手に取り「本書の目次は一般公開を禁ぜらる!」と大書したチラシが評判となり飛ぶように売れた。国体科学の理論構築と大衆啓蒙を図り、昭和3年11月には国体科学連盟を結成。続いて『天皇とプロレタリア』(昭和4年)も大ベストセラーとなる。昭和天皇による御大典を契機として、4年1月に『国体科学』と改題。国体を「誤って資本主義宗教なりとし、これに反逆せんとする徒輩をも粛正せん」と獅子吼した国体科学連盟の宣言は広く日本全土を駆け巡り、左右両翼に不満を持つ人々を支持者として受け容れ、読者を増やすことに成功。
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『社会新聞』
〔昭和6年3月1日号~昭和6年10月11日号〕
▶昭和6年3月、社会運動と学術運動を分離するべく、『国体科学』は『社会新聞』と改題。十日ごとに刊行する旬刊へ。純然たる学術研究は季刊『里見研究所論叢』に。国体科学の立場から天皇の社会的本質に関する研究に取り組むも、「神聖なる存在に対する科学的研究」を禁忌と捉えた内務省により機関誌は何度も発売禁止を受けることとなった。その上、二方面の運動を同時に、しかも大々的に展開する財政的負荷に耐えきれず発行停止に追い込まれる。
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『社会と国体』
〔昭和7年2月号~昭和11年4月号〕
▶京都に本拠を移された里見先生は国体と法哲学の関係に着目。『天皇の科学的研究』、『天皇統治の研究』、『「国体」の学語史的管見』、『皇室典範の国体学的研究』『国体憲法学』など国体の学的発展の基礎を築かれ、当時の学界に多大なる影響を与えた。憲法学者としての地歩を固める傍ら、昭和7年2月、月刊誌『社会と国体』と改め再出発。当時の最側近、岡本永冶が編集長に就き、国体主義同盟として運動面を再構築。学術的な啓蒙に心血を注ぐ。
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『国体学雑誌』
〔昭和11年5月号~昭和19年9月号〕
▶昭和11年2月11日紀元節の佳日に日本国体学会を創立。二・二六事件のほとぼりも冷めぬ昭和11年5月、『国体学雑誌』と改題。学問的色彩をより明確にされた里見先生とその門下は、大日本帝国憲法の正解運動を展開、さらに会勢を拡大していった。『国体法の研究』により法学博士号を授与され、立命館大学に新設された国体学科の主任教授となった先生は、日本国体の道義性に基づく八紘一宇を目指すべきと内外に説き、満洲国や朝鮮などにも精力的に巡講。
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『国体学雑誌大衆版 皇民の人生』
〔昭和11年5月号~昭和19年9月号〕
▶「東洋永遠の和平は、日本国体の大義に基く国策を以てするに非ざれば断じて実現し得る処ではない」とし、国民も政府も国体明徴を怠れば「東洋の和平確立は愚か……孤影悄然、絶海の小島に閉息するの非運に立ち至るであらう」の危機感を抱き、新たに大衆啓蒙の任を果たす『皇民の人生』を創刊。再び学術誌と啓蒙誌の二冊を毎月刊行する体制へ。昭和12年支那事変勃発。昭和13年11月、『国体学雑誌研究版』と改題。東條政権や大政翼賛会を容赦なく批判。聖戦と大東亜建設の根本原理を首唱した。だが、政府当局の圧迫に加え、戦局悪化に伴い刊行に必要な用紙が枯渇。『皇民の人生』は18年12月を以て廃刊せざるを得ず、研究版も頁数減や合併号などを迫られる。大東亜戦争末期の19年10月には空襲により印刷所が焼失。発行不能に陥る。
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『国体戦線』
〔昭和22年3月号~昭和26年6月号〕
▶大東亜戦争敗戦後、里見先生自ら鍬を取り開墾に追われつつも、不屈の言論・講演活動を各方面で展開。『天皇偽制の敗退』、『日本の再建と反省』を脱稿するも、GHQの検閲により発行禁止に。GHQによる占領下で「破壊してはならぬものは国体であり、失つてはならぬものは天皇である」と護国の叫びを挙げ、昭和22年3月8頁立ての『国体戦線』として機関誌は戦後の歩みを始める。「いのちの限り息の限り国体科学を唱へて唱へ死するの決意をもつて国体戦線を展開し、右翼亡国の国体論を粛正し、左翼破国の天皇制廃止論を討伐し、興国の原理、民主主義日本の自己原理、真理としての国体を明かにし、以て祖国再建の土運びに任じたい悲願である」と、先生は悲壮な御決意を示されている。復刊第一号では本誌掲載の「国体戦線論」の他、「国体の意味」、「人間天皇の思想を批判す」などの文篇を掲載、戦後社会批判を前面に打ち出した。同年6月28日、マッカーサーにより公職追放。「大王学人」「大内山護」など匿名や変名で言論活動を引き続き展開、また、追放令の隙を突いて本名で戯曲を発表し、占領政策に風刺。
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『国体文化』
〔昭和26年7月号~昭和60年12月号〕
▶追放解除から間もない昭和26年7月に『国体文化』と改題。この時期、先生は『天皇?(『天皇とは何か』として現在も刊行中)』『日本の民主主義』『日本国憲法の批判』『日教組と革命』を警世の四部作として刊行。さらには33年7月号に「大日本国憲法案──日本国憲法改正里見案」を発表するなど、“敗戦脳震盪”に冒された戦後民主主義の矛盾・傲慢・不誠実を徹底的に痛撃する。紀元節復活運動に着手し、批判的な見解を示された三笠宮崇仁親王殿下に対し誌上で諫言申し上げた。
昭和49年の里見先生帰寂後は、小久保勝治大孝園議長を中心に門下の結束を図った。
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『立正文化』
〔昭和32年1月号~昭和60年12月号〕
▶欠かすことの出来ない問題に宗教の問題がある。里見先生は『国体宗教批判学』(昭和4年)『日蓮は蘇る』(昭和4年)『吼えろ日蓮』(昭和6年)など観念的な古典教学に痛棒を加える。その後、長らく教学研究から離れ、国体・憲法研究に没頭されていたが、石原莞爾のすすめなどもあり、昭和31年7月16日に立正教団創立の声明を発表、34年4月1日に宗教法人として認証。この流れのなかで、32年1月に立正教団機関誌『立正文化』創刊。「『立正文化』躍進の辞」で「葬式仏教、儀式仏教であつてはならぬ」と立言し、里見先生はじめ田中智學先生の師子王学統の継承者達が筆陣を張るなど『国体文化』とともに二誌体制を構え、創価学会・公明党はじめ戦後宗教界の粛正に乗り出す。
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『立 正』
〔昭和61年1月号~平成18年3月号〕
▶昭和60年、日本国体学会機関誌『国体文化』と立正教団機関誌『立正文化』の二誌が合併、『立正』となる。その後、昭和天皇崩御、平成への御代替わりはじめ、「開かれた皇室」論議や天皇陛下御訪中問題など国体に関わる問題が取り沙汰されたが、『立正』は時局問題への根本的批判を通じて日本国体の開顕・明徴に力を尽くした。
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『国体文化』
〔平成18年4月号~刊行中〕
▶平成17年4月、河本學嗣郎理事長の下、新体制となる。折しも門下を挙げて取り組んだ「昭和の日」への祝日改称が同年5月に国会で可決成立。18年4月より再び『国体文化』に改題。19年8月号を以て創刊より通巻一千号を迎える。27年4月の里見日本文化学研究所創設90年を期に、金子宗徳編集長が所長に就任。真の国体顕現を目指し、官憲・議会・軍部・右翼や占領軍の弾圧に徹底的に抵抗しながら護った機関誌『国体文化』という大事業を会員一致団結の上、遺業継承の中心軸として今後も護っていきたい。

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