「国体科学」入門篇〔1〕 天皇は国民か君主か

里見岸雄著『新日本建設青年同盟 学習シリーズ 1 天皇とはなにか』所収

 日本の国には、「天皇」と呼ばれる者が存在しているということを知らない日本人はあるまい。誰でも皆知っている。然(しか)し、天皇とは何か、天皇とはどういう者か、と尋ねてみたなら、おそらく、正確に答え得る者ばかりではなく、随分突拍子もない答をする人がいるのではないかと思う。

 昭和二十五年の夏、著者が東北地方を旅行した際、一度は青森県の赤石という村で数名の青年と座談しているうち、何かの行きがかりでふと私が一人の農業青年に、天皇は君主か国民かと試問したところ、その青年は「国民だと思います」と答えた。これは私が全く予想し得なかった答えであってこちらの腹の中では「勿論君主です」と答えるだろうと思っていたのである。ところが全く意外な言葉に、内心驚きながら、その理由を問うてみると、その青年は「憲法に国民の象徴とあるから国民と思います」と答えた。そこで私はよくその誤りを指摘して説明してやったら、その青年は、「私が間違っていました」と日(い)い、十分理解したらしかったが、これに教えられて、その日の翌々日、山形市で、三四十名の座談会の席上、私は又もや、同一の質問を試み、「天皇は君主であると思う人は手をあげて下さい」と日ったところ一人も手をあげる者がない。そこで「国民だと思う人は手をあげて下さい」と日うと、若い女が一人、中年の男の人が一人、即座に手をあげた。そこでその職業と共に理由を聞いてみると、電話局に勤めているという女性は、「憲法の言葉の上から言うと国民のような気がします」と述べ、医者だという中年の男性は、「君主と申上げたいのですが、何だか君主と申上げてはいけないような気がします」と答えた。これは、ある日蓮教団の集りの席上のことである。まさに、霜を履んで堅氷到るといふ感じで、肌寒い限りであった。

 尤も、憲法改正議会に於ても一寸これに類した問答があった。主権が国民に存するということになると、天皇と主権〔国家の最高の意志力、即ち憲法を制定することの出来る力をいう〕との関係はどうなるかということが、当時の最も重大な問題となり、議員は政府にこの事を質問したのであるが、政府としては、主権は全然天皇から離れると明言したくなかったのであろう。吉田首相、金森国務相など一様に「天皇を含んだ国民全体」に主権がある、という風に答弁をしたが徳田球一などは威丈高になって、「主権が天皇を含む国民全体にあるというのは詭弁も甚しい」と攻撃した。

 主権の問題はしばらく別として、一体、天皇を含めての国民というようなことが可能であろうか。当時の国情下に於ける政府の苦衷は、私もこれを深く諒解する者ではあるが、苦衷は苦衷、論理は論理だ。天皇といふ言葉や文字は、国民でない天皇を指すのであり、国民という以上は天皇でない人類を指すのであって、両者を混淆することは絶対に許されない。「天皇を含めての国民」という者が存するならば、「国民を含めての天皇」という者もなければならなくなるがそういふことはあり得る筈のものでない。試みに白を含めての黒、黒を含めての白というものがあるかどうかを考えたらよかろう。馬を含めての鹿をつれてこいと日われても困るだろう。秦の始皇なら、これが馬を含めての鹿だと言い張るだろうが、それはほかの人間には通用しない。天皇といふ字は君主を意味するものであって、憲法に「天皇」と書いてあれば、それは日本国を構成する人的要素の中国民でない人即ち君主を指すものであることは疑う余地がないのである。

 国民とは国家を構成する人的要素のうちの君主でない人即ち一般の人を指す文字であって、皇が自と王との二つから成っているのに反し、民といふ字は母と一の合字で衆庶を象ったものであるのは何人も動かす事の出来ぬ字義である。国民の象徴〔精神、理想、道義などを形体で現したもの〕だから国民だという解釈は成る程一寸素人考で陥り易いところと思うが、これは理論より実物の例で話すとすぐわかると思う。

 たとえば国旗というものは、通常国家の理想・精神、歴史、主義などをあらわしたものであるから、一口に言うと、国家の象徴だとされている。然し、国旗を以て直ちに国家そのものであるとすることは出来ぬ。国旗は国旗、国家は国家である。国旗を掲揚せよと日えばわかるが、国家を掲揚せよではわからぬ。国旗は国家の象徴であるが、さりとて国旗は国家の象徴であるから国家であると曰えないことがわかれば、天皇が国民統合の象徴であるという理由によって、天皇を国民であるとする解釈も間違ったものであることがわかるであろう。 

 人民の象徴たる者は人民でなければならぬという道理はないのであって、況(ま)して天皇は日本国憲法によれば、日本国の象徴であると共に、単なる日本国民の象徴ではなく、日本国民が統合している姿の、又は、あり方の象徴であつて、その象徴という意味は非常に深いのであるが、憲法は、かかる象徴を、所謂万世一系の天皇に求めたのである。万世一系の天皇とは日本が有史以来幾千年の伝統を誇ってきた君主である。即ち、君主たる天皇が日本国の象徴であり且つ日本国民統合の象徴とされたのであって、天皇が君主でなくなり国民の一員となられたわけではない。

 一体、君主とは何であるか。人はややともすると君主とは一国の政治に於ける最高且つ最大の権力者であると思い勝ちであるが、これは君主の時代的性質に捉はれた狭い見解であって、歴史を通じての君主観とはいえない。「プロレタリア辞典」というものを見ると君主制とは「君主が国家の主権者として政治を行う政治形態で其の代表的なものは封建的君主の専制政治である」と註釈しているが、これは全歴史を通じた発展の相に於て君主の本質を把握しないで、封建時代という歴史の一時代を標準にしたものであって、決して正しい見解とはいえない。「人民とは君主に対する絶対的服従者であって政治に関する何等の権利を有しない政治上の奴隷でありその代表的在り方を示したものが封建時代の国民である」ということが間違っているとすれば、君主のかかる見方も亦(また)当然間違っている。

 上世、中世、近世、現代を通じ、そして将来の可能性をも併せ考えると「およそ君主と日われる者は、宗教、道徳、武力、血統等の単純又は複合的理由によって起源し、社会及び国家の統一の中心と仰がれる一人的存在であって、その地位身分は一国至上の名誉と待遇とを附与され血統を以て相続する事を原則とし、政治的には国家元首と見做(みな)され、時に実質的に権力の主体又は機関とされ若しくは儀礼的に国家意志の執行に最高の役割を果すものである」というべきである。新憲法下、天皇が政治の実権に参与されない制度となったので、君主の実質が消滅したように思うのであらうが、それは権力作用のみを君主の仕事だと誤解した先入見の為めであって、君主の本質をよく確認していないものといわなければならぬ。


さとみ きしお(日本国体学会総裁・法学博士)

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