「国体科学」入門篇〔8〕 天皇が無くても国が治まるか

里見岸雄著『新日本建設青年同盟 学習シリーズ 1 天皇とはなにか』所収

終戦後の言論自由に便乗して天皇制廃止を叫んだ者は、天皇などなくても国は治まる、ソ連を見よ、アメリカを見よ、中共をみよなどと曰つてゐるが、苦労の足りない書生論だ。

成る程人間が単に国家を成して生きてゆくだけなら結局は天皇が無くてもやつてゆけるに違いない。アメリカやソ連や其他の人民共和国を引合いに出す迄もなく、そのくらゐのことの出来るのは当然だ。だが、それには途方も無い大犠牲を払はなければなるまい。それはどんな犠牲かといふと、おそらく手のつけられない程の内乱が驚くべき長期間に亘つて全国土国民を混乱のどん底に叩き込んでしまふであらうといふことである。日本の歴史上戦国時代と呼ばれる殆んど一世紀に亘る全国的内乱はどうして起こつたかといふと、其の最大の根本原因は、足利幕府の政治的無能によつて、皇室の統治実の発揮を極度に妨げたからである。皇室を余りにも飾物として国民から遠ざけてしまつたからである。それだから中心なき個と個の対立闘争に陥つたのであるが、信長の出てきた頃になると、漸く天下の諸将皆この矛盾を知るに到り、競つて京都を目差し天皇を奉ぜんとしたのである。これが日本の民族生命体の根底を流れてゐる社会法則なのである。

漫然と外国を眺め、よその国の歴史的経験で日本の国だつて天皇がなくても収まるなど 太平楽を並べたてても、さういふ言葉に何の責任があるわけではない。日本人だつて人間だから、よその国民のやつてゐることが出来ない道理は無いにちがいないが、長期に亘る全国的内乱を覚悟してまでよその国の真似をする必要など、一体どこにあるのか。労働者の利益などといふ目先きの勘定で、全国民が長期に亘つて、とりかへしのつかない分裂、相剋、闘争の、絶望的内乱に投げこまれてはたまつたものではない。いはゆる天皇制廃止といふことは、この惨憺たる破壊的大犠牲の長期連続なしには望み得ないことである。

苟も思慮ある者なら、そんな馬鹿々々しい考に賛成することは出来ないではないか。一体、天皇を労働者や農民や無産階級の敵だと考へるのは、中世欧洲の無限君権の王制から導き出した結論を、馬鹿正直に直輸入した思想であつて、日本の社会的歴史事実に対する科学的研究の結果ではない。成る程、唯物史観に基く日本歴史論もあるが、肝心要の天皇に就ては、時代的に、外形的に附着せしめられた制度ばかりを皮相的に取扱つてゐるだけであつて、悉く、先入観を以て解釈したものばかりで、到底、科学的などといへる代物ではない。外国人は、簡単に国王を無くして生活してゆけるけれども、日本人は、さう簡単に天皇を亡くしてやつてゆける国民ではない。それは、実に、社会的構造と歴史的発展の差に由るのであつて、単なる現実の可能不可能の問題ではない。日本民族の生命体的自覚を根本から破壊することだからである。

つまり、単なる国家の政治生活として無君主になるといふことは、他の国民の経験的可能から推理すれば日本人だつて出来ないことはないに違ひないが、それには、他国に類例のない深刻な大犠牲を払はなければならないから、そんな愚かなことをなすべきでないのみならず、日本人はそれを欲しないのである。たとへ、出来ても欲しないといふことは、日本民族の厳然たる心理的事実なのである。日本民族は、「国民から遊離した、又は国民の外部にあつて君主たる事をその利権としてゐる君主によつて支配されてゐる」のではなく、「民族自体の生命的中枢によつて治められてゐる」のであつて、「治められてゐるといふことは、天皇の御徳に約した表現だが、それは、国民が受動的であるといふ意味ではなく、若し、国民に約していへば「日本民族は天皇を中心にして治まつてゐる」ことにほかならぬ。

だから天皇が治めるとか国民が治められるとかいふのはまだ相対的分観であつて日本民族生命体系の全観から言へば、「日本民族は天皇を中心として自ら治めてゐる」ものにほかならないのである。君民一体といふことは、かういう巨大な日本民族の生命的統一を指すのであつて、他の者(天皇)によつて治められてゐるなどといふ他人行儀の対立観ではなく、自分自身(君民一体)で治めてゐるといふ絶対観なのだ。民主主義の原理と究極的に一致する自己統治なのである。

だから「天皇が無くても国が治まる」などといふエビ鯛式理論などに喰ひつくものは、余程、日本人の性根の腐つた雑魚であつて、立派な正しい日本人は、飽く迄天皇を欲し、天皇ゐます事に、無上のよろこびと誇りとを感じてゐるのである。

天皇ゐまさざる日本、そんなものは、ほんとの日本ではない。

さとみ きしお(日本国体学会総裁・法学博士)

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