「国体科学」入門篇〔12〕 尊皇と個人の尊厳

里見岸雄著『新日本建設青年同盟 学習シリーズ 1 天皇とはなにか』所収

『民主主義といふものは個人の尊厳の原理の上に立つてゐるものだ。だから民主主義日本人は、尊皇などといふ封建的遺習をかなぐり捨てなければならぬ。

天皇は、もう神様でもなければ元首でもない。最高の公僕なんだ』──こんなことを言ふ者がある。反動的な浅薄な自称民主主義者の言ひさうなことだが、フレデリツク大王か何かが、朕は国家の公僕であると曰つたなどといふことを西洋史で習ふと、すぐそれを直訳的に振り舞はすのだから、全く、日本の青白きインテリといふものには嘔吐を催さずにゐられなくなる。民主主義の原理である個人の尊厳といふのは基本的人権の確認尊重といふことで、人間が生命といふものを一般に尊重すべきものであるといふ自覚によつて確立した原理である。これを無視したり蹂躪したりすることを許さないといふのは、近代の倫理と政治の至上命令である。

だが、その事は生きる権利についての原理であつて人間はすべて対等の尊敬以上のものを他の人に払つてはならぬといふことではない。生きる権利は平等であつても、個人々々の勝れた性質や力量や徳望といふものは大いに異るのであつて、勝れた者を特別に尊敬するといふことは、人間の持ちまへであり、それによつて、価値あるものが益々栄えるのである。愛する本能は動物にもある。然し尊敬するといふことは人間にのみある。親子が愛しあふだけ夫婦が愛しあふだけなら動物の境界を出ない。教へる、習ふといふ関係だけでは真の人間的教育は出来ぬ。独逸のある社会学者は上位下位的結合本能といふことを説いてゐるが、何等かの意味で自己より上位にある者、勝れた者を尊敬するといふことは人間の文化的本能であらう、近頃「人間天皇」という劣俗の言葉が流行してゐるが、天皇は人間だから我々と同じだと考へ、敬語さへ碌々使はないやうになつてきてゐる。実にお粗末な思想といはざるを得ないではないか。

尊敬といふことは人間が価値を認識し、価値の前には己れを空しうしてひざまづく最も崇高な人間的精神である。政治や法律の上の基本的人権たる個人の尊厳をハキちがへて、見境なく、我れも人なり彼も人なりなどといふのは文化国民でない証拠だ。一人の釈迦の前に、一人の孔子の前に、一人の基督の前に幾億の人間が尊敬を献げてゐるではないか。それが価値を知り、価値を尚ぶ人間の謙虚な姿なのである。天皇を尊敬することを尊皇といふが、尊皇こそは日本民族の己れの生命的価値の自覚に基く文化的姿なのである。尊皇は個人の尊厳を否定するものではない。むしろ、目本人として個人の尊厳に真に徹する時人は、同時に、一体としての日本国民、乃至日本民族の尊厳に思ひ到らなければならない。日本民族なくして日本人の個人もないわけだ。それが正しい物の道理である。日本民族の尊厳を自覚する者は、必然、日本民族を統一ある生命としてゐる大きな価値を認識せずには居れぬ。それが天皇だ。ここに於て、日本民族の尊厳は、要約すると天皇の尊厳、従つてそれへの尊敬即ち尊皇とならざるを得ないのである。然し尊敬でも間違つたものもあり正しいものもある。誤れる尊敬は、いかなる人の場合でもよろしくない。神憑の尊皇などは、形は敬虔そのものであるが、時に甚しい大害を招くものであることは、戦前の絶対主義的尊皇論が、国家を支配した為めに取りかへしのつかぬ国難を招いた事を反省してみたら誰にも成程と合点が行くにちがひない。

だから、著者は、「天皇を敬ふとも悪しく敬はば国亡ぶべし」といふのである。だが、民主主義化の音頭につれて正しい尊皇の美風まで喪してしまふのは愚の骨頂である。正しき尊皇の勃興によつてのみ、日本は、民主主義を日本化し、かの西洋人の発見した人間自覚史上の一大精華と東洋人の発見した人間自覚史上のそれとを融合統一して、世界に一大貢献をなし得るのである。天皇を軽々しく扱ふといふ事は日本民族そのものを軽侮することである。皇位を不可侵なものとすることは、日本民族の生命的至上命令であるから、そこには、それに応はしい尊皇が伴ふのが当然である。天皇を成るべくゾンザイに取扱ひたがる民主主義といふものは、まだこなれてゐない輸入ものの証拠である。

尊皇と民主主義が水と油のやうな間は日本再建の土台がまだふらふらしてゐるものと見なければならぬ。天皇に対する敬語が全く出鱈目になつてゐる。車掌が乗客に対してさへ「乗車券を拝見」といつてゐるのに、天皇に面会だの会見だのといふ不遜の言葉を用ゐてゐるのだから実に転倒も甚しい。「首相天皇訪問」などといふフザけた言葉は、日本語の法則を故意に破壊してゐるもので、勿論、「首相参内拝謁」と書くべきだ。民主主義をゾンザイ主義だと思つてゐるやうなことでは、真にこの国の将来が案じられる。天皇は憲法の言葉でいへば象徴だが、天皇が国家や国民統合の象徴とされる所以のものは、天皇が日本民族の三縁中枢、即ち血の中心たる親であり、心の中心たる師であり、生活の中心たる主であるからで、それは、日本国民の生命の中心といふことにほかならぬ。天皇は断じて公僕ではない。公僕としての天皇など無用の長物だ、公僕は総理大臣で沢山である。国民が窮極的に帰一する尊敬の対象でない天皇などといふものはないのである。天皇は、国民の唯一の至高の尊敬対象である。だから、天皇を正しく敬ふといふことが、日本の本来の正しい姿なのである。これは、日本国の要求するところであつて、天皇御個人の権利ではない。天皇の尊厳といふことがわからなければ、日本民族の尊厳もわからぬ。「天皇を正しく敬へ」これが、精神的に崩壊しかけてゐる病める日本救国の一大標語である。
尊い者を強て粗末にすると罰があたる。尊い者を尊び崇めるのこそ文化人である。天皇は国家の至尊である。心を恭しくし、言葉を丁重にし、態度を正しくし、天皇の尊厳が、ますます光り輝くやうにするのこそ・真に日本を愛する所以に外ならぬ。それを奴隷的だなどと思ふのは、自分の心が浮薄で驕慢で卑しいからだ。

さとみ きしお(日本国体学会総裁・法学博士)

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