「国体科学」入門篇〔11〕 天皇と国民生活

里見岸雄著『新日本建設青年同盟 学習シリーズ 1 天皇とはなにか』所収

象徴といふことを浅薄に解釈するものは、天皇は今や飾物である。極めて高価な飾物である。平林たい子といふ女は、終戦当時、ラヂオの対談で「天皇は遊んで食つてゐる」とまで放言した。

かういふ人は、三文小説でも書いて原稿稼ぎをしたり、納豆でもかついで売つて歩いたりすることだけを労働だと考へてゐるのであらう。短的に言へば、かういふ人は、天皇などあつたつて何の役にも立たないぢやないか、何等国民生活に利益を齎さないではないか、無用の長物だと考へてゐるのであるが、余りに大きく、根本的で普遍的なものは、心のねぢけた者や未熟の者にはわからないのである。親の大慈悲が不孝の子にわからない場合、引力の大きな作用がわからない場合、実際にさういふことはいくらもある。

われわれは一々引力を感知するわけではないが、引力が働いてゐる為めに、地球が回転しても、地球外にこぼれず、各自大地に足をつけて生きて行けるのである。天皇の公の御活動といふものが我々の直接の生活の上にどんな利益を齎すかといふことは一々我々が感知してゐるわけではないが、何よりも先づ天皇ゐます事によつて日本の全国が窮極の統一と安定を保つてゐるといふ一大事を認識しなければならぬ。雨につけ風につけ、この事こそ、日本の最大の幸福であつて、一人々々がパンを貰つたとかアメを貰つたとか就職の世話をして貰つたとかいふ小さな事柄とは比較しえないのである。これを天皇の一視同仁といふのだ。

太陽が無ければ一切は死滅するのだが、それでも人間は、それ暑いとか、まぶしいとか、いろいろ御託を並べたがる者で、天皇の広大な御恩に慣れると馬鹿を言ふ者も出てくるが、馬鹿の御託を真にうけることはあるまい。

日本が世界のいかなる国家よりも長い歴史を一貫して創造してきてゐることは、日本が窮極的には常に統一を保つてきたことに外ならないのであつて、これは、日本の国家が一番の根底に、不動の皇位、即ち万世一系の天皇を奉じてゐた為めにほかならない。

群雄割拠の戦国時代でさへ、世界各国の同じやうな場合に比する時、実に奥底深い根本の統一を失はなかつたのである。これは実に有難いことであつて、日本国民はこれを無外(おほきな)の皇恩として感謝してゐるのである。天皇があつたつて国民生活に三文の得もあるまいなどといふ罰当りを言ふものではない。次に、人間の経済生活が唯物史観で言ふやうな階級を発生させ、支配階級が被支配階級を冷酷に征服するといふことは確かに一面の真理である。これは日本だつて同じであつて、神憑の国体論者が日本には階級闘争の歴史はないなどと言つてみた処でどうにもなるまい。国王があつてもその国王が支配階級の本尊で、骨の髄まで階級の権化であつた国々に、いかに長年悲惨な階級的搾取が無慈悲につゞけられたかは、マルクスの、あの怖るべき「憎悪」を生み出したことによつて例知すべきであらう。日本も人間の国であるから、無論、他の人類の陥つた運命から完全に逃れるといふことは出来ない。支配階級の歴史がそこに生れたわけである。

さりながら、日本の場合には、いつでも時代の最高の支配者を、道義的に必ず制約する者が厳存し、それが為めに、支配者は、他国のそれに比して、確かに、支配階級の残忍さに徹底し得なかつた。一例をあげると、足利八代将軍義政は芸術史上東山時代と呼ばれる一時期を劃した程贅を極め、一代の間に徳政令を出す事十三回といふ枇政百出の人で足利の歴代のうちでも屈指の悪政家だつたから終に百年の内戦の発端たる応仁の乱を誘致してしまつた程だが、かかる義政の事だから、寛正年間の大飢饉疾疫流行の際にも新殿の建築や造庭などに浮身をやつして憚らなかつた。寛正の飢饉は古記によると「世上三分二餓死二及ビ骸骨衢二満テ」ゐたといふからひどい。それが支配階級の心理だ。

ところが、足利将軍に比して遥に質素、否むしろ御不自由な供御に甘んじてをられた後花園天皇は、義政に一首の詩を下賜せられた。「残民争つて首陽の薇(わらび)を採る。処々序(かき)を閉し竹扉を錬(とざ)す。詩興吟春の二月。満城の紅緑誰が為に肥ゆ」といふのである。義政はこの御製を拝読して、流石に面はゆいものがあつたらしく、新殿造営を中止し、救恤の金を出してゐる。

これは、ほんの一例であるが、天皇ゐます事によつて、支配階級の国民的良心が刺戟せられ、他国の場合に比して、極端に冷酷なことが行へないやうに制約されるといふことは、日本歴史を一貫して見出し得る法則であつて、局地的農民争動などばかり羅列して日本の階級闘争歴史を作りあげるのは、史眼が朦朧としてゐる為めか、さなくば階級的精神の故に理性がくらんでゐる為めかである。目先きの小さな欲得勘定で天皇の御恩を測らうとするのはメクラが自分に見えないものを無いと思ふのと同じである。

  さとみ きしお(日本国体学会総裁・法学博士)

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