「国体科学」入門篇〔3〕 万世一系の天皇

里見岸雄著『新日本建設青年同盟 学習シリーズ 1 天皇とは何か』所収

 以上で、天皇の要素といふ問題はわかったが、さて、天皇という者は、単に神武天皇、乃至明治天皇、大正天皇、今上天皇というような歴代の個々の天皇を個々に天皇と称するだけであろうか。皇統連綿万世一系などというが、それは単に血統が長く続いているというだけの意味に過ぎないのであろうか。若し、歴代の天皇を個々に天皇というだけだとすると、それらの天皇は皆個性を異にする別々の人間であるから、お考えになること、意欲なさることも当然各別であって、そこには必ずしも一貫したものがないことになる。天皇の大御心などと言ってみても、要するに甲天皇の大御心と乙天皇の大御心とは別個なものとなってしまう。従って、時にどんな大御心が現れないとも限らないことになる。即ち、つづいているのは単に血統だけであって、大御心は個々別々で必ずしも一貫連続するとは限らないことになるから、天皇を中心にするとしても、いつ何時、人民を不幸にしたり、恐怖させたりする結果が現れまいものでもないといふことになる。勿論、歴代の天皇は、人間であるから、それぞれ性格を異にされ、なさることもお考えになることも異る場合のあることは疑う余地がない。

 けれども、そこに一貫した「大御心」というものがないとすると、皇位を世襲なさるということが、十分な社会的、国家的根拠を持ちえなくなり、より多く、単なる皇室の特権のようなことになる。世の中には、万世一系といふことを、単に血統の永続と考え、従って皇位継承を単に皇族の特権だくらいに解し去っている者が甚だ多いようだが、この問題は、日本の天皇を正しく知る為めに極めて重大な点である。そもそもある時代に、ある皇族が天皇になられるというのは、どういうことであるか、それは、その皇族に先立って天皇といふものがあって、個人たる皇族が、天皇になられるのである。そして天皇になることを即位するというのであるが、即位とは皇族が、天皇になられるのである。そして天皇になることを即位するというのであるが、即位とは皇位に即くということであり、皇位というのは、天皇の位であるから、結局、個人たる皇族が、天皇の位に即くと、その個人をも天皇と称するのである。

 つまり個人たる天皇の外に、超個人的天皇があるという考に基いて、即位といふことが出てくるのである。この超個人的天皇が、天皇の実体であって、それは個人のように、年をとって崩御するというようなことはなく、不死不滅常在恒存する天皇なのである。これを帝国憲法では「万世一系の天皇」と言ったのであるが、この意味で「万世一系の天皇」即ち超個人的天皇は、個人的天皇に先き立って存在し、そして一層根本的であるということが出来るのである。そうすると、万世一系の天皇には、個々の天皇の個人的性格的に異る大御心でない根本的大御心といふものがあると考えなければならない。つまり、いかなる時代の、いかなる個人としての天皇をも貫いて、およそすべての天皇と日われる人々の根本とすべき大御心というものがあって、不変の天皇精神となるものがあってこそ、万世一系は血統ばかりでなく、心統〔心質即ち精神的遺伝〕の上にも連綿一貫の義を有することになる。即ち、歴代天皇が個々に御仁慈であるというにとどまらず、日本の天皇は必ず、万世一系の天皇の大御心の継承者でなければならないという一大要件が生れてくるのである。

 そこで、歴代の天皇は、皆この万世一系の天皇の大御心を体現なさるべきだという天皇軌範(みち)が確立し、個人としての天皇が、この軌範を守り実行したまう努力をなさるだけでなく、輔弼(ほひつ)も亦この線に副(そ)うて誤りなき事を期しなければならぬということになるのである。この意味の大御心を最も根本的に軌範として器によって示したものが、古来、皇位のしるしとされてきた三種の神器であり、従って、皇位というものは、道の中心的在り場所をも意味することになる。だから万世一系の天皇ということは、日本民族が、血と道の中心を定めたものであり、歴代の天皐たる方は、その御血統に基いて、国家の道義的中心たる万世一系の天皇を、御一身を以て充足し且つ表現体証なさるわけである。されば個々の天皇は、この万世一系の天皇を現実に充足、表現、体証なさる事によって天皇の天職を完うしたまうのであり、個々の天皇たる方なくしては万世一系の天皇の存在も空しく、万世一系の天皇なくしては個々の天皇が、真に天皇たることを得ないという不可分の関係にあるのである。

 因みに、万世一系の天皇ということにつき終戦後、一部の青年等を惑わしつつある俗論が横行しているから、その代表的なもの二つを捉えて簡単に批判しておこう。第一には、皇統は仲哀天皇で絶たれているから万世一系でないという説だが、こういう説は、徳川時代に既に栗山潜鋒、新井白石などが種を播きはじめたもので必ずしも敗戦後初めて登場した問題ではない。然し敗戦後に又もや心なき者が、この問題をむしかへして人心撹乱を企てた。けれどもこれは既に明治時代に解決されている問題であって、歴史学者は誰一人疑をさしはさんでいない。即ち明治二十四五年に亘って故文学博士重野安繹が、史学会で講演しその速記を史学雑誌に載せたところによって問題の鳧(けり)はついているのである。重野博士に従うと、『我国に未だ暦のなかった時代のことを書くのに、日本書紀は年月日を一々割りつけたものなのだから、そんなものを信用するのが第一に非科学的なのであって、古事記には始から年月日はない。だから最初から書紀の年月日を棄てて見れば応神天皇御懐胎の事は何も疑を容れる余地がない。書紀の年月日のままに見れば十三ケ月となるが、落合直文博士の研究によると十一ケ月だということである。然し落合博士の研究も結局仲哀天皇が九年二月の崩御で其の年の十二月に応神天皇御誕生とあるのを証とし書紀の月次によっているものだから承知出来ぬ。然し凡そ産期は十ヶ月とは云うものの少しの伸び縮みのあるのは通例だから十一ヶ月であったとしても当然の産期で生理上の問題には不都合はない。又、書紀の文について見ても、十三ヶ月目で最早産期はとくに過ぎているのに、「于時当皇后之開胎〔時ニ皇后ノ開胎(うみつき)ニ当リ〕」と書いてあるから十ヶ月臨産に相当するようにも見えるし、記紀を通じて再三再四本文に隠れもなき仲哀天皇の御遺腹の御子だと書いてある。要するに書紀の年月日を取除いてみれば内容的には少しも疑を挾むべきところがない』これがその説の大要である。今一つの俗論は、共産主義者宮本顕治、伊豆公夫などが、「万世一系というが、われわれ民衆はすべてそれぞれの先祖を持っており天皇の家系だけが例外的に誇称されるようなものではない」という説である。

 だが、何といふ見当ちがいの愚論なのであらうか。万世一系の天皇といふ場合の万世一系ということは単なる家系や生物的種の一系を言うのではなく、支那でも五百年にして王者興ると言っているように、五百年とつづく王家は誠極稀であって、短命なのになると僅に十年内外のものから長くても二三百年で王統の革命を見るのが普通であるのに、その変り易い王統史の中で、万世を貫いて一系の天皇が君臨されている事は、全く例外中の例外であるし、且つその事が古来日本国民不動の信念でもあるから、特に万世一系の天皇というのである。一般の家系にしても、仲々二千年三千年も明白に続いているというのは少いのであるが、それでも日本では流石に、出雲の千家、北島、藤原一門諸家の如く、皇室と同じ古さの一系の家がある。だが万世一系の千家などといふ馬鹿はない。

 万世一系なる語が、そういう単なる家系の意味でないからである。生物学的に言えば、今日生きている人は、悠久の太古からの種がつづいている証拠であって二系三系になった者はいないし、且つ、種という観点からすれば、人間の先祖はいつでも人間で、家系の中に、十代前迄は豚であったというようなものはないのだから、つまりこれも、共産主義者的に言えば万世一系だということになるかも知れないが、そのようなくだらぬことを「万世一系」だなどといってみても何にもなるまい。まとをはずれたことは日わぬものだ。

 猶お、万世一系ということは神勅の宣示であって神の意志であるとする思想が終戦前までは支配的であった。宗教的信仰としてはぞういう考も成り立つが、それは飽く迄も古代人の信仰であって、それをそのままふり舞わし過ぎると神道禁止令などといふお灸を世界から頂戴するのである。古代人がそう信仰したとしても、そこには何か事実の背景があるにちがいない。それを見出すのが学問の力である。

 天照大神がそう仰せられたからそうなったと古代人が信じたことはそれでよろしいが、古代人がそう信じたについては拠る所が現実にある筈だ。つまり、日本人が漸次一般に、皇位は万世一系天壌無窮であるにちがいない、そうあらしめなければならないという確信を形成してきたから、古代人特有の考え方に基きそれを神意として表現したのであって、今の憲法でいえば、結局「国民の総意」に外ならないのである。国民の総意がこの点だけは不変不動だったから万世一系皇統連綿という国体の精華を成してきたのである。だからこの意味では古代人の神とは即ち国民の総意にほかならない。

 

さとみ きしお(日本国体学会総裁・法学博士)

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